Cocco Lifestyle blog

日々の「実験」について書いてます。

年を取ったら忘れっぽくなるのではなくて、身についていないことが消えていくだけ。そのときに(再)学習できる内的資源があるかどうかが問題

今日はLinux MInt19で書いています。

 

AtomMarkdownでPDFにヘッダーとフッターの入るパッケージを見つけて、テンプレートを自分仕様にちょこっといじることができたり、スタイルのcssを少しいじってみたりで、なんとかなりそうな気がしてきました。

 

とりあえず練習用に今までのWordの資料をMorkdownに移し替えてみながら、スタイルやらなんやらいじってみるのもありなのかなと。

 

なんか似たような人がいてうれしい。

私より全然レベルが上だけど。

 

qiita.com

 

 

 

生涯学習時代に移行してすでに70年ほど経つわけですが、中年期の学習に関しては、未だ手がつけられていないというか、それどころか、どういう視点でものを見るかについてさえ整備されていないことが多い気がします。

 

私が知る限りでは、加齢による衰退に合わせて生活の見通しや運動、学習のあり方を変える大きなモデルくらいしかないですが、まあ、専門の年齢でもないので、実はもっとあるのかもしれません。

 

今回は、中年期の学習について、若干救いようのない点から書いてみたいと思います。

 

 

先日姉に会った時に、失礼やなと思いながらふと思ったのが、この人老けたなーってことでした。

外見とか容貌とか、そういうことではなくて、立ち居振る舞いがかなりやばい。

運動面じゃなくて認知面がかなりやばい。

 

遠方からこっちに来るにあたって、私の方に提供してもらって然るべき情報(もらえないと会うことすらできない)が来ないとか、どう考えても無理筋の計画をゴリ押しするとか、もとからそういう傾向はあったものの、大丈夫?というレベルまで行っている気がしました。

 

 

問題の本質は、おそらく、本人もまずいことには気づいているものの、笑ってごまかすとかそういうので乗り切ろうとしていることだろうと思います。

 

これは、まずいから変わろうという意志が薄いこともありますが、実際に行動に移せる資源がないんだろうなと感じました。

 

 

人からみて明らかにまずい行動を繰り返すということは、年齢を問わずあり得て、行動を変えられない場合、実行機能がイマイチとか、望ましい行動を実行するだけの認知面、運動面、情緒・社会性の面での発達が追いついていない(失われた)とか、いろいろ複合的に起こっているだろうと思います。

 

大学を含めた学校には、それらについて、自尊心を削がない・できれば上げる方向で是正するノウハウが存在しています。

 

全部の学校に、とはいいません。

存在しているところには存在しているということです。

集団の力学が働くので、ポジティブなスパイラルでいくところとネガティブなスパイラルでいくところとの格差が激しくなっているのではないかという感触はあります。

(経済格差とは別のところで)

 

 

ポジティブなスパイラルで行ったときには、自分の力をどんどん伸ばすことができます。

ここらへんの話は、ウォルター・ミシェルの『マシュマロ・テスト』(ハヤカワ文庫)にも出ていますが、健全な実行機能を元にした適度な自制心を幼少期から培うことによって、可能になっていく面があります。

 

さらに、18歳くらいまでのことを考えると、継続して取り組むことで力がついてくることが子ども自身もわかる必要があります。

これは、潜在的にはかなりの人が分かっていると感じます。

(少なくとも私が見ている人は)

 

一方で、継続して取り組むことによって自分の力がつく内的感覚を得ないまま来たとか、結果が得られるところまで続かなかったとか、そういう人も多数います。

そういう人たちに関して、周囲の人はとても気にかけていますが、本人が気づかないとどうしようもないという側面もあります。

 

 

継続して取り組むことについては、アンジェラ・ダックワースの『GRIT』が参考になると思います。

 

やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

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 主観的には、継続して取り組んで一定の獲得レベルまで行ったことは、年齢を経ても忘れていません。

子ども時代にのめり込んだことを20年30年ぶりにやっても、案外できることが多かったりします。

むしろ、認知面で発達していたり、さまざまなことで場数を踏んでいたりするので、子ども時代よりもうまくできたりすることもあります。

 

もちろん、できないこともあります。

なぜできないかというと、手順があやふやだからです。

 

 

手順というのは、

 

まずは順番にやってみる。

慣れたら弱いところを重点的にやってみる。いわゆる部分練習。

最初から最後まで通す。

さらにまた弱いところを部分練習する。

 

の繰り返しで身体に叩き込まれていきます。

 

 

身体に叩き込まれたレベルがどの程度なのかで、成人になってから再開したときの展開が違ってくると思います。

 

基本的な手順が身についていると、応用がきくようになります。

たとえば、今、私はLinux MInt19をいじるようになりましたが、なぜそれができるかというと、Windowsのヘビーユーザーで、20年位前は、エクスプローラーを覗きまくりだったからです。

 

歴代のWindowsとLinux MInt19は違う面がたくさんありますが、ディレクトリがどうなっているのかに慣れつつ、ターミナルに慣れつつやっていると少しずつ分かってくるものなんだなーと実感しています。

 

Windowsを触り始めたのは、大学を卒業してからです。

大学院のときに使い始めましたが、それまではワープロを使っていたし、教えてくれる人がたくさんいたので苦労はしませんでした。

 

ワープロは学部のときに使い始めました。

ワープロにも抵抗はありませんでしたが、ピアノをやっていたので指の動きは比較的器用だったのと、文章を書き慣れていたことが理由だろうと思っています。

 

文章を書き慣れていたのは、もともと本が好きで、小5の担任の先生が、「うその話(=物語、小説)」を書く時間を設けてくれて、そこから作文ができるようになったんですよね。

 

振り返ると、新しいことを学習する際には、以前習熟していたことを使っているんだなと感じます。

そして、新しいことに援用できるレベルというのは、やりこんでやりこんで身体化しているものなんですね。

 

ピアノだの小説の身体化というと、ものすごいレベルを思い浮かべるかもしれませんが、私の場合、ピアノの才能は明らかにほぼゼロだったので、現時点でできることはバイエルレベルだろうと思います。

 

しかし、両手を一緒に動かせるレベルで全然いいですし、実際問題、保育士資格の実技試験は、バイエルレベルで伴奏ができればOKだったので、別にショパンが弾けなくても全然OKなんですよ。

 

文章を書くほうがピアノよりも好きだし、もっといろいろアドバンテージがありますね。

ワープロを習熟する際に、タイピングの練習は一切しなかったので、実地でレポートや卒論を書くときに慣れていきました。

文章を書き慣れていると、文章の組み立ては自然にできるので、筆記用具で書いていたものをワープロに置き換えただけ、という形で習熟することができます。

 

逆に、文章を書き慣れていない場合は、タイピングの練習などでキーボード操作を身体化していくといいんじゃないかと感じています。

タッチタイピングは、考える頭の余白を残しておくという意味で非常に重要です。

といいつつ、Linux Mintをやりはじめて、英字のタイピングはもう一度やり直してもいいかなーと思う今日この頃だったりするんですが。

 

 

こんな感じで、私たちの学習は、結局のところ、やりこんで身体化したことを未知の領域に援用していくことで実現していくのだなーと感じます。

 

知識獲得においては、既有知識がベースになることは、常識中の常識であるわけですが、私たちの学習は、頭だけではなくて身体を動かすことによって得られていくことなので、獲得されたかどうかの内的感覚を研ぎ澄ますことは重要でしょう。

 

獲得されたかどうかの内的感覚の最初は、2歳前後ではないかと感じています。

周囲の状況や大人の話していることがかなりわかるようになり、原初の概念が生まれ、自由に歩き回り身の回りのものを操作できるようになり、やりたいことが飛躍的に増える時期です。

 

この時期は第一反抗期だとか、イヤイヤ期だとか、いろいろ言われていますが、やりたいことが飛躍的に増えるからこそ、自分でやる!と言い張るわけで。

この時期は、自分にはできないことがあることがわからなかったり、部分練習ができるほど習熟しているわけではなかったりするので大変っていうのはありますね。

ただ、やりたい気持ちをベースにして、いろいろ練習していく機会は必要で、ここを超えないと、身体的な自律には向かわないんだろうなーという気はしています。

 

 

中年期の学習に戻りますが、これまでの人生で身体化されたことを未知の状況に援用するという点ではおそらく違いはないと思います。

問題はそれが、若いときと比べて学習能力の落ちた状態で実現できるかということで、これはもう、できる人はできるし、できない人はできないとしか言いようがない気がします。

 

なぜならば、上で見てきたように、小さな頃からの積み重ねで学習が進んできていて、学習する方法を学んでいなければ、独自に新しいことを学びようがないということになっているだろうからです。

 

私の姉の場合は、わりといろいろできる方でしたが、あまり練習している姿は見ませんでした。

 なまじ要領が良かったばかりに、50歳になって苦労しているということではないかと感じています。

 

 

人口が漸減し人手不足が見込まれる中、その気になれば一生職を失わずに生きていくことは可能だろうと思います。

ただし、それは、未知の状況における学習が可能である場合において可能であるとも言えます。

 

 

中年期から老年期になっても未知の状況における学習が可能であるというのは、

 

  • 心身ともに健康であること、少なくとも、毎日そこそこ機嫌良く暮らせるだけの健康を保っていること
  • 未知の状況に対する好奇心があること
  • これまで学習されてきた事柄が膨大にあり、応用可能な状態になっていること
  • これまで学習してきたこととあまりかけ離れすぎないスキルが要求される場を見つけること

 

 あたりでしょうか。

 

 言い換えると、中年期になってから気づいても遅いってことです。

「若干救いようのない」というのはこの点においてで、人生における私自身の基本姿勢は、どこまでいっても取り返しはつく、というものですが、取り返しのつかない場合も多数あるのだろうなというのも感じます。

 

個人的には、「オタク気質=内発的動機づけが高くてそれを狭い現実場面で実現できる」のほうがいろいろ世の中渡っていきやすくなるのではないかと感じています。

 

ただし、オタク気質であっても、自分が置かれた状況を理解して自分の力をカスタマイズするとか、自分のオタク分野を共通言語で表現できるとか、最低限の社会性を身につける努力は必要だろうと思います。

逆に、最低限の社会性を身につけるだけで、自分の世界を守りやすくなるともいえますし、社会の中で新たな世界が拓かれてくる可能性も高まってくるといえます。