Cocco Lifestyle blog

日々の「実験」について書いてます。

2019年に『モラトリアム人間の時代』を読んで思ったこと

以前から読みたかった小此木啓吾著『モラトリアム人間の時代』を読みました。

 

 

 

 

 

現在こちらを読んでいる最中です。

 

 

まだ途中なのですが、内容を強引にまとめつつ、思ったことをちょっと書いてみようかなと思います。

 

モラトリアム人間の時代』はかなり有名な本です。

単なる流行りものかなと思っていたら、現在の状況にも通じる分析で、非常に面白かったです。

 

ただ、1970年代、1980年代と現在とは、さまざまな価値観が変わっているのも確かで、読む人によっては怒ってしまうかもしれない記述もあるなーと感じます。

40年前の著述なので、著者に文句を言うのは筋違いだと思いますが。

 

モラトリアムというのは、もともとはエリクソンが青年期の特徴として挙げたものです。

モラトリアムの本来的な意味は、有事の支払い猶予で、それが心理社会的な意味合いに用いられたということですね。

 

青年期におけるモラトリアムは、いつか社会に出ることを想定しているわけですが、モラトリアム人間というのは、青年期に限定されず、社会的性格化したものであるといえます。

 

社会的性格というのは、エーリッヒ・フロムがファシズムが人々に流布した現象について述べる際に使った概念で、社会で暮らす人々の心の中に共通する経験や欲求に根差した無意識に潜む人間のあり方だそうです。

 

モラトリアムが社会的性格化したというのは、青年期に限定されずに多くの世代や属性に見られるということです。

 

ただし、モラトリアム人間といった時点で、青年期におけるモラトリアム=社会における責任を免除されて「実験」にいそしむといった面よりは、アイデンティティ拡散的な側面が強くなるといえます。

 

アイデンティティ拡散というのは、社会に出る=自分が何者であるかを決めるという側面を延々先延ばしにするということです。

マーシャのアイデンティティ・ステイタスでいうと、アイデンティティ拡散・危機後(すべてのものは可能であるし、可能なままにしておかなければならない)に該当する気がします。

 

なぜ、アイデンティティ拡散的なモラトリアムが社会的性格化したかというと、社会の変化が速くなって、社会に出たときの自己定義でずっと行けるわけではなくなったことが大きいです。

 

そして、青年期の人たちは、社会の変化に敏感であって、そういった人たちの性質が社会に出ても歓迎されるような風潮にあったからといえます。

 

反面、なぜ変化に敏感で「実験」を繰り返せるかというと、責任を免除されて無責任に物を言えるから、社会からはお客さん扱いしてもらえるから、と言えます。

そして、社会に出ても当事者意識がなくお客さん気分でずっといるのがモラトリアム人間だという話です。

 

 

モラトリアム人間と会社人間とは、まったく別物であるかのように見えますが、実は、会社人間の中にもモラトリアム人間的な性質が見え隠れすることも書著の中で指摘されています。

 

会社の中で出世しようとするならば、変わりゆく会社の流れに適応する必要があります。

到来するはずの未来を「待つ」姿勢が、実は会社人間に必要であって、未来を待つ姿勢というのがモラトリアム人間の性質であるというのですね。

 

という内容が『モラトリアム人間の時代』だったのですが、

 

モラトリアム人間を考える』の冒頭を読んでいて、さらに分かったことがありました。

 

モラトリアム人間は社会が豊かになり、かつ変化が速くなった時代の産物であるといえますが、さらに見てみると、生活環境の人工化が影響していると言えます。

 

フロイトの時代には、自然環境に適応することが自我の成熟の課題でした(=現実原則)。

しかしながら、生活環境が人工化していくと、寒さに耐えるとか、空腹に耐えるとか、

そういう機会は減ります。

それによって現実原則感覚の弱化が引き起こされます。

 

現実原則感覚の弱化によって、私たちは、「願えば叶う」万能感覚を捨てずに済むようになりました。

それが、モラトリアムという心理感覚が社会性格化した一つのおおきな理由ではないかということです。

 

さらにいうと、人為的・社会的なルール=執行原則@マルクーゼでさえも、現実原則が絶対的でなくなったことによって、相対化されることになりました。

 

人為的に決められたルールなのだから、なぜ従わねばならないのか?という話です。

 

現実原則の相対化および執行原則の威光失墜によって起こったことの中に、ジェンダー意識の相対化が挙げられていました。

 

現実原則及び執行原則が強固であった時代には、現実原則と同一視されるような執行原則がありました。

その中にジェンダーというよりは男女の明確な区別といった方がいいと思いますが、そういったものも、現実原則と同一視されるレベルの執行原則に入っていたということですね。

 

著書の中ではこういう書き方はされていませんが、昔は「冬は寒いから耐えられるようにならなければならない」というレベルで「男と女には明確な区別があるから耐えなければならない」というルールが扱われていたということですね。

 

それが、「男女の区別は人為的に決められたものである」という認識が広がり始めたとうことですね。

 

ジェンダー関連の執行原則の失墜によって、摂食障害が引き起こされていると解釈できる箇所がありますが(食欲という現実原則を人為的に操作可能であるという観念も関与)、モラトリアム人間時代以後の人間としては、むしろ、ジェンダーに関連する違和感が明確に意識化される前の身体表現症的なものとして摂食障害を位置付けた方が、納得できる気がするのですが、どうなんでしょうか。

 

身体の不調としてしか表現できなかった時代から40年経って、現在は、ジェンダーの区分けなどに関して言語化可能な時代に入りつつあります。

言語化することによる抵抗が凄まじいですが、そのうち慣れていくと、摂食障害的な表現は減っていったりするのかなーと思ったりします。本当か分かりませんが。

 

 

それから、現時点で80歳前後の人たちのジェンダーに関連する言動に、ものすごく違和感を覚えることが多かったのですが、それは、おそらくジェンダーの区分=生物学的に動かせないもの、くらいの強固な刷り込みがあったからなんだというのがようやく納得できました。

 

情報が蓄積されてきたらカテゴリ境界があいまいになってくるというのは、あちこちの分野で起こっていることだと思います。

生物学的な区分についてもそうだし、発達障害についてもASDに限らずスペクトラム的に見るのが通例になっていると思います。

なので、ジェンダーに関しても境界があいまいになってくるのは然るべき動向であるというのが私個人の感覚なのですが、 そういう感覚は、モラトリアムの社会性格化以前と以後で受け入れられるか否かが決まってくるんだろうなと感じました。

 

 

 

現在も引き続きモラトリアム人間の時代が続いていると思いますが、著書の時代とはかなり様相が変わっているのかなという気がします。

 

一つは、2冊が書かれた1970年代~1980年代前半は、経済に翳りが見られるとはいえ、まだ豊かだった時代で、社会でモラトリアム人間を許容できる余地があったと思います。

 

現在は、モラトリアム人間を許容できる余裕がどんどんなくなっていって(青年期のモラトリアムはすでに消滅していると思うことがしばしば)、分かりやすくモラトリアム人間をやっている人を排除しようとする動きが顕在化していると思われます(ただし、排除しようとする側もモラトリアム人間であると思われる)。

 

また、モラトリアム人間の核と言える現実原則感覚の弱化と執行原則の失墜は、新たな形で執行原則を作る動きになっているのではないかと思います。

そのひとつがコンプライアスの感覚です。

コンプライアンスというのは、お互いに気分よく暮らすための決まり事という気がするんですが、平和感覚というのもモラトリアム人間の鍵であるという話なので、そこらへんは符合する気がします。

 

 

ちなみに、スピ系で、インディゴチルドレンとかクリスタルチルドレンとか流行ったことがありましたが、これらも、モラトリアム人間の下位カテゴリとみなすこともできるんじゃないかなという気がしますし、昨年取りざたされたスピ起業やネット起業における動向も、モラトリアム人間のものとして捉えることが可能だろうと思います。