Cocco Lifestyle blog

日々の「実験」について書いてます。

「私の方が正しい」という心の背景にあるのは

昨日の続きです。

 

 

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己の毒親問題を振り返っていると、大抵の場合は、親が全面的に悪いというわけではなくて、自分の問題点も見つかってきます。

あるいは、自分が悪いと思っていたら、実は親兄弟のすごい言動が原因だったということもあります。

 

家族と自分の価値観や行動は表裏一体で、自分が何をやっていたのかが関係性の中で分かってくると、その関係性そのものを改善するか、別の関係性に軸を移すか、いずれにせよ、問題を起こし合う関係から抜け出すきっかけになってきます。

 

逆に、どっぷり浸かっていた関係性から抜け出してみると、問題を起こし合う関係がどのようなものだったか分かるようになったりもします。

 

 

今回いろいろ振り返ってみて気づいたのが、私の中に、

 

「私の方が正しい」

 

という思いがあることでした。

 

 

「私の方が正しい」というのは、ちょっと曲者だと感じました。

「方が」というのは誰と、どこと比較しているの?

この文脈では、「家族と比較して私の方が正しい」ということになります。

 

自分が正しいと思うなら胸を張って堂々としていればいいのであって、「私の方が」とつけるのは、私自身の行動にもやましい部分があるわけです。

 

 

そのやましい部分は何なのか?と思ったら、私は家族に実害を被ったと感じているわけですが、私も家族に害を及ぼしていたことです。

 

実際上、子どもの頃からすぐに疲れるすぐにキレる、すぐに倒れる、その他いろいろありましたので、私自身が家族に害をなしていないわけはなく、家族以外の周囲の人にも悪影響を及ぼしていたことは確かでしょう。

 

 

そのことは気づいていたけど認めたくない、フタしたい。

 

という心が、

 

「私の方が正しい」

 

という思いに結実していたわけですね。

 

 

 

 

「私の家族と私を比較すると、私の方が正しい」という思いの曲者具合をもうちょっと書いていくと、

 

「正しい」という思いそのものには比較対象(この場合は私の家族)は必要なくて、自分単体としての正しさの感覚を持つことができます。

「正しい」というのは論理性の場合もありますし、倫理的な感覚の場合もありますが、論理性や倫理観は個人を超えて広く流布しているものであって、脱人格的な情報との整合性を諮れば得られるもののはずです。

(裁判で一般市民の感覚から逸脱しているように感じる判決があったりするのは、法律的なものの見方には脱人格的な要素がかなり含まれていることも大きい気がします)

 

一方、「私の家族と私を比較すると、私の方が正しい」という思いは、家族という比較対象を必要とします。

ということは、この思いを持ち続けていると、自分の家族に対してイヤだから離れたいと思いながらも、ずっと離れられないということが生じます。

 

 

 

だいぶ前になりますが、キングコングの西野さんがアンチの人に対して、あなたは僕のファンなんですよねと言ったというのが話題になっていました。

 

 

ファンというのは一般にはその人に対してポジティブな気持ちでつながりたい人のことです。

アンチというのは一般にはその人に対してネガティブな気持ちでつながりたい人のことです。

 

人は称賛を浴びると気分よく高揚しますが、批判されたり誹謗中傷されたりするといろいろ削られます。

そのため、ファンとアンチは対極のものとして扱われる場合も多いですが、「対象に対して何らかの感情を持ってつながりたいと思う」という点では違いがないともいえます。

 

そして、ファンの定義を「対象に対して何らかの感情を持ってつながりたいと思う」というものに変更したら、いわゆるアンチもファンに含まれてしまうということになります。

 

 

 「私の家族と私を比較すると、私の方が正しい」に戻ると、これはいわばアンチの心の持ち方です。

こういう気持ちを持ち続けていると、不本意ながらも家族とつながり続けることになります。

 

 

 そして、 「私の家族と私を比較すると、私の方が正しい」という気持ちの背景にあるのは、「自分自身も周囲に害をなす存在である」ことのやましさであるので、そのやましさを解消できると家族から離れられるという構図になっているのだと感じました。

 

 

とはいえ、自分自身が周囲に何らかの害を及ぼしてきたであろうことはおそらく事実であるし、その経験を消すことはできません。

なので、実害を被り合う関係の中でがっちり組み込まれてきたことからの自分が害をなす存在であることから抜け出すには、たとえば助け合う関係を学べるコミュニティを持ってみるとか、別のあり方を身に着ける機会を持つことなどが必要になってくるだろうと思います。

 

 

 さまざまな問題を抱えてきた知人に対して、非常に長い間無料で相談に乗ってきました。

その知人は本当に長い間状況が動かなくて、定期的に連絡が来るときには重苦しい空気に包まれて疲労困憊しました。

あるとき、状況が一気に悪化して、私の手に負えなくなったときに、「私の手には負えないから公共の機関を頼りなさい」ということと「私に相談したいなら相談料を払いなさい」と伝えました。

そしたら、重苦しい空気の密度がさらに重さを増して(生霊もバンバン飛んできていた)、知人は「お金なんか払えない」と言いました。

もうちょっと聞いてみると、知人は家族からお金を毟られているので、私になんかお金を払う心の余裕も経済的な余裕もないとのことでした。

それを聞いて、私はお金のことに関してはそれ以上触れずに、いずれにせよ私に相談しても解決する問題ではないので、公共の機関に連絡するようにと伝えて連絡を切りました。

 

その後、知人からの連絡が数か月途絶えて次に連絡が来た時には、状況が変わっていました。

それまで家族から精神的にも経済的にも毟られっぱなしなのが、カウンターパンチを浴びせたそうです。

その一発で状況が好転するほど甘くはないし、その知人の場合は、カウンターパンチを浴びせる精神状態が必ずしも良いものであるわけではないので、楽観はしませんでしたが、いずれにせよ、私が抜けたことで状況が変わったわけです。

 

(ただし、その当時に私が抜けるのはかなりの賭けで、下手を打つと傷害事件にまで悪化する可能性はありました。今となっては死傷者が出なかったことを感謝するばかりです)

 

 

 

 

この件から私が学んだことは、私が知人に軽い気持ちで(無料というのはお互いに気軽な側面があります)相談に乗ったばかりに、家族関係の地獄を長引かせてしまったのだということです。

 

知人は確かに家族関係の中では被害者の位置づけであるといってもいいでしょう。

しかしながら、人がずっと被害者の位置づけでいられるかというとそういうわけでなくて、不足分をどこかで補償しようと動くものだと言える気がします。

 

 

知人の場合は、家族に毟られた不足分を、私から毟ることで補っていたということです。

無料で相談に乗るのは、いいことのように見えますが、問題となる関係性を長引かせることになりかねないということですね。

 

また、私自身も知人から毟られた分を他から補償しようとしていただろうと思います。

 

 

(この関係は、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』におけるナチスドイツ政権下の強制収容所での人間関係にも見られますし、先日発生した虐待による死亡問題でも、父 → 母 → 子というつつき順によって、死亡したお子さんに全部しわ寄せが来たという面もあるだろうと思います。死亡したお子さんのご冥福を祈ります)

 

 

「私の方が正しい」という気持ちを持ち続けることは、毟り毟られる地獄の関係を持ち続けると大きな声で言っているのと同じようなもので、助け合える暖かい関係に移行したいのであれば、家族と自分との比較はさっさと捨てて、日常をしっかり回していくのがいいのだと感じました。

 

 

 

 

ちなみに、上に書いた気づきの原型は、20代の頃にすでに感じ取っていて、新たな関係性を構築してきたので、実家から出た時点で地獄の家族関係はすっかり忘れて、暖かい関係を謳歌すればよかったと思います。

 

 

それができなかったのが、複雑性PTSDあるいは発達性トラウマ、あるいは愛着障害的な側面を持つ者の難しさであり、

 

複雑性PTSDにおける救世主願望の裏返しともいえますが、「人を救える」という分不相応な自己概念を持つが故の、おのれ自身の実害であるともいえるでしょう。