Cocco Lifestyle blog

日々の「実験」について書いてます。壮大な自由研究帳 → 幹細胞みたいになってます。機能が分化した別館も併せてよろしくお願いします

方向音痴における感覚と認知 & 複雑性PTSDと運動情報

わたくし方向音痴です。

この10年でじわじわ改善していますが、根本的なところは変化していないと思います。

 

私が使っている教科書を読んでいると、方向音痴ってもしかして学習障害・・・・・?

と思ったりします。

方向感覚は、精度を上げる機会が腐るほどあるにも関わらず、一向に学習する気配がないので、確かに学習障害なのかもしれないという気もします。

 

方向音痴とひとことで言っても、おそらくいろんなパターンがあって、そして困ったことに多くの人が自分の状態を言語化できない。

それどころか方向感覚は非言語性なので、方向感覚の優れた人であっても、なぜ自分が正しい方向に行き着けるのかを詳細に言語化することはかなり難しいのではないかと思われます。

 

そうなると、方向感覚が優れた人も自分の方向感覚が当たり前で、私みたいに方向感覚がやばい人も自分の方向感覚が当たり前なので、方向感覚を改善するための方策を編み出すとか、そういう以前に、コミュニケーション自体が成り立たないなんてことも結構あります。

 

私の場合、10年間じわじわ改善してきた箇所はなんとなくわかっています。

そして、改善されつつあるときに、何が起こっているのかが自分で分かるということになっているみたいです。

 

自分の方向音痴について分かっているところについて書いてみたいと思います。

 

 

私の場合、子どもの頃から目が悪かったです。

小3のときに、左目の視力がものすごく落ちていて、右目だけ見ていることが判明しました。

片眼だけで見ていることが判明したのが小3ということなのであって、小3から片眼で見ているわけではないと思います。

もしかしたら、幼稚園くらいから片眼で見ていた可能性もあると思います。

 

片眼で見ていると奥行き知覚ができません。

奥行き知覚が「できない」と書くとちょっと正確ではないんですが(詳細は省略)、少なくとも、外界を三次元の広がりのある空間であると認識する力は弱くなります。

 

私の場合、子ども時代から片眼で見ていることが方向感覚に影響していることは間違いないと思っています。

それに加えて、小4くらいには、視力も落ちましたんで、広い空間で身体を動かすこと自体があまり好きではなくなった気がします。

 

今はどうかというと、数年前に両眼を使った奥行き知覚ができるようになりました。

奥行き知覚ができるようになってみると、自転車に乗るのが怖くなくなりました。

 

自転車で狭い歩道なんかを走るのが怖かったんですけど、怖くなくなりました。

なぜかというと、片眼だけの情報しかない場合は、幅の情報が取得しづらいみたいです(網膜像の情報の話になりますが、詳細は省略)。

両眼視ができると、幅の情報も取得できるようになるみたいです。

 

ということで、まずは外界を探索すること自体のストレスが激減しました。

 

それと同時期に、もうちょっと広い空間にも注意を向けられるようになりました。

そして、「だいたいこっちの方向」みたいな勘が少しきくようになりました。

「だいたいこっちの方向」みたいなのが少しわかるようになることで、慣れていない場所を移動するのがすごく楽になりました。

 

今気になっているのが、高さの知覚に関してです。

普通は奥行き知覚というと、水平方向も垂直方向も指すのではないかと思いますし、何も考えなければ水平方向と垂直方向の知覚は連動していると思っていしまうと思います。

 

しかし、私の場合は、水平方向と垂直方向の知覚が連動していないのでは?

という気がします。

 

一番気になるのが、階段の昇り降りです。

いまだにすっごい怖いです。

多分立体視で来ているのではないかと思うんですが、いつもつまづきそうになります。

 

知覚と運動が協調していないのでは?

という気がするんですが、

 

それだけではなさそうだという気もしていました。

 

それが、GWに入って分かったような気がしました。

 

 

以下の話は、進んでいくにつれて怪しげになっていくので、取扱注意です。

 

 

GWに入ったある日、突然「頭が立体になった」気がしました。

外界の事象を立体として認知できるようになったという感覚です。

これ一体何なの・・・・・ということになると、合理的な説明はできません。

 

私が感じているのは、この数年で、両眼による立体視ができるようになったものの、処理を進めていく過程のどこかで、立体に変換でききれていなかったのではないかということです。

知覚は門外漢なので、ほんまかいな・・・の話ですが。

 

 

ま、でも、水平方向と垂直方向の知覚が私の場合は連動していないということが分かっただけでもスッキリしたというか、階段なんかはやはり気をつけてみようという気になりますんで、良かったかなという気はします。

 

 

話をさらに進めて、さらに怪しげな方向へ行きます。

これ以降の話はむやみやたらと信じないでください。

 

 

奥行き知覚と奥行き認知について感じたことで、奥行き知覚ができていないことのデメリットに気づきました。

 

 

20年以上前の話になるので、今どういう話になっているのか分かりませんが、あるとき、「脳は視覚と概念を区別できない」という話を聞いたことがあります。

 

もう少し分かりやすく言うと、「脳は見たものと思い出したもの(記憶)を区別できない」ということになるでしょうか。

 

しかし、私たちは、見たものと思いだしたものを混同することはありません。

なぜなのか考えてみると、視覚以外の情報を使って視覚と記憶を区別しているのではないか。

 

たとえば、両眼による立体視の最も基本的なところだけでも、網膜像の融合と眼球の輻輳(両眼で焦点を合わせるときの、両眼と対象が作り出す角度)の2通りがあります。

 

網膜像は視細胞が出発点で処理が進んでいきますが、眼球の輻輳は運動情報も含まれています。

視覚といっても、外界のものを実際に見るときには、運動情報も重要な情報になり得るということです。

 

しかし、何か思い出すときには、また違った運動がされていると思われます。

そういった違いを照合することによって、視覚と記憶を区別しているのでは。

 

 

私の場合、眼球の輻輳を動かす(というのはすごく変な表現ですが)のがとても苦手です。

ランダムドットステレオグラムみたいなのもできないです。

ランダムドットステレオグラムの例 → How to RDS

 

輻輳を動かすの苦手、みたいなのも、視覚と記憶の区別に影響していないんだろうかな?

というのを思ったりします。

ただし、立体視でなくても視覚からの運動情報はいくらでも取得できるので、実際に見ているものと記憶とを混同することはないのかもしれません。

 

しかし、微妙なものもあります。

たとえば、実際にあったことの記憶と実際にはなかったことの想像とか。

どちらもある意味、記憶の範疇に入るかなという内容だと思います。

これらの記憶に運動情報が付加されているかされていないかで、現実にあったことかなかったことかの判別の容易さが変わってきたりしないだろうか。

 

 

というのが、

ここ数か月ほど、本のあるページから必要な情報を見つけ出すというシチュエーションで、迷わず情報を見つけ出せるようになっているんです。

(以前は、こういうシチュエーションでは目が泳ぐというか、すごく苦手でした)

 

 それと同時期に、たとえば出かけた後に、家の鍵を閉めたか気になったときにも、「閉めた」と確信を持って思い出すことができるようになっています。

(以前は、鍵を閉めたかどうか不安がちょっと残っていました)

なぜ確信を持てるかというと、「身体を動かした感覚」も一緒に思い出すからなんです。

 

これって、視覚情報の取得と運動情報の取得が同時にアップしたということなのでは。

と思ったりします。

 

 

つまり、奥行き情報の知覚がうまくできていないと、視覚(今見ているもの=現実)や現実に基づいた記憶と、現実に基づかない想像や記憶の判別が難しくなるというデメリットが生じるのではないかという気がしています。

 

現実と想像の区別がつかないというのは、メリットがある場合もありますが、現実場面に対処するときにデメリットになる場合も多々あります。

 

 

ここからさらに話が飛びます。

 

これまでの話を強引にまとめると、

 

方向音痴は現実と想像の区別の困難さと関連している

その間には、視覚情報と運動情報(高次の、あるいは認知的な処理も含む)の連動がうまく行っていないという要因が考えられる

 

ということになります。

 

これだけでもかなり話が飛んでいるので、さらに話が飛ぶとなると、

推測に推測を重ねるような流れになりますので、論理的な整合性は期待しないでください。

 

昨年の夏、複雑性PTSDをキーワードに自分の状態について内観したり、実際にケアしたりしていました。

そして、数か月くらいでかなり改善したと感じています。

 

複雑性PTSDについては、自身の体験も絡めていくつか書いていますが、関連しているのは以下の記事です。

 

coccolifestyle.hatenadiary.jp

 

この記事は、杉山 登志郎さんの著書について、解離に絞って概観したものです。

 

複雑性PTSDというのは、簡単にいうと、幼少期の虐待が大人になるまで悪影響を及ぼした結果どういう状態になるのかを示したものです。

(私の場合は、いわゆる「虐待」の状態はなかったと感じていますが、家族による共感性の著しい欠如によって、似たような状態に陥っていたと感じています。ただし、自己判断なので、クリニックに行ったときにどう診断されるかは分かりません)

 

 

複雑性PTSDという名称ではなくて、DESNOS(極度のストレスによる特定不能の障害)という名称になりますが、以下のような状態を示すという表が載せられていました。

 

1.感情覚せいの統御における変化

  • 慢性的な感情の制御障害
  • 怒りの調節困難
  • 自己破壊行動および自殺行動
  • 性的な関係の制御困難
  • 衝動的で危険を求める行動

 

2.意識の変化

  • フラッシュバック
  • 解離エピソード

 

3.自己意識の変化

  • 絶望感
  • 恥辱感
  • 罪責感
  • 自責感

 

4.他者との関係の変化

  • 信頼の欠如
  • 引きこもり
  • 自己を守る機能の崩れ
  • 救済者ファンタジー

 

5.意味体系における変化

 

6.身体表現性障害

 

 

この表を見ていますと、現実と内面との乖離が少なからず生じていることがうかがえます。

この記事の前半で書いた、視覚情報と運動情報の連動 → 現実と想像の区別の話と、かなり被る気がしています。

(平たく言うと、現実とは全く違った形で内面の世界が展開されている)

 

DESNOSの表の1~6の項目のうちのかなり多くに、「現実と記憶や想像の区別がつかない」という内容が含まれている気がします。

 

杉山 登志郎さんEMDRという眼球運動を使った治療法を使用しておられるそうですが、どうしてEMDR複雑性PTSDなどに作用するかというと、「眼球運動が現実と想像の区別に深く関与しているから」という非常に雑な仮説を立ててみましたが、実際のところどうなんでしょう?

 

非常に興味のあるところではあります。

 

EMDRだけでなくて、TFTで解離がかなり改善したという話を聞いたことがありますが、TFTの場合も眼球運動と関連しているかもしれないと思ったりします。

 

EMDRは医療関係者しか使えないので一般の人は使えませんが(眼球運動以前に、トラウマ情報を扱うので、一般人がやるのは危険だろうと思います)、

 

「眼球運動以外の運動情報をうまく使うことで、複雑性PTSDの状況が改善するかもしれない」という、これまた非常に雑な仮説も立ててみました。

 

 

このブログでは、

 

ここ3年ばかり消化吸収の向上と体重増量がうまく行っている話をしこたま書いていますが、

同時に、ストレス状況も著しく改善しています。

 

ストレス状況が改善したのは、睡眠と栄養状態が改善したのが大きいと思っていましたが、

 

それだけではなくて、運動面も改善したというのが大きいのではないかという気がしてきました。

 

運動というのは、筋トレとかジョギングとかを思い浮かべがちですが、

 

内臓の運動とか、

生活とか、

 

そういうものも運動の側面としては重要だと感じています。

 

すごくモヤモヤしてストレスが増加しているときに、便がスルっと出たら現実に引き戻されるということが何度もあって、不思議だったのですが、

内臓が動くと迷いの小道から現実に引き戻されるということがあるのではないかと思いました。

 

また、生活面の規則正しさというのも、結局は社会生活に合致した形で身体を動かすということになり、現実と記憶や想像の区別をつける役に立つ面があるのでは。

 

さらに、消化吸収がよくなると、生命維持だけではなくて、外に出て動くためのエネルギーを確保することにもつながります。

外に出て動くことがまた、現実と記憶や想像の区別をつける役に立つのでは。

 

 

精神面の不調において、生活面の改善が大きなウェイトを占めるという話をよく耳にしますが、社会復帰のためだけではなくて、内部環境の改善にも一役買っているのかもしれないという気がしました。