Cocco Lifestyle blog

日々の「実験」について書いてます。壮大な自由研究帳 → 幹細胞みたいになってます。機能が分化した別館も併せてよろしくお願いします

「気」のめぐる感覚

タイトルの「気」は「気血津液」の「気」

使っているモノはアーユルヴェーダなのに理解は中国医学というへんてこりんなことになっています。

 

右側の首と肩が弱いです。

夏に柔軟剤アレルギーになったときにも激痛が走りました。

先日も右肩首に激痛が走り、ちょっと困るなーと思っていろいろやってみました。

全身はヴァータに良いオイルを使いました。

目はショボショボして熱を持って張っていたので、ギーは確か冷やすんだったよなと思って目の周りにトリファラギーをつけてみました。

 

ヴァータのオイルを使っているときに、腕の付け根が流れていないことに気づき、念入りに流しました。

目は、トリファラギーをつけて優しくなじませている間に目の張りが緩んできました。

 

そのまま寝ましたが、翌朝痛みはかなりよくなっていました。

 

それだけだとオイルすごいねーで終わりなんですが、

 

朝異変を感じました。

 

私の中でなんか動いてる。

 

 

もしかしてこれは「気」というものではないのか。

 

 

実際には分かりませんが。

 

そして、「気」と「血」と「津液」は連動しているので、「気」だけではないはずなんですが。

そして「気」にもいろんな種類があったはずなんですが。

 

その日はあまり疲れず元気でした。

(そういえば元気も「気」だ)

 

なので、私の中で何か起こっていることは確かです。

 

 

 この、私の中で何かが巡っている感覚がとても面白くて、まだ先があるらしいというのが分かって、もうちょっと先に行ってみたくなりました。

 

 

 というのを書いていて私は主体的自己の比率が高いんだなと気づきました。

普通は客体的自己のほうが比率が高いんじゃないかと思うんですが。大人だったら。

「自分はこういう人間です」と人に伝えるのが微妙にやりにくい理由が分かった気がしました。

 主体的自己の比率が高いというのは「動き続ける自己が自分である」と規定しているようなもので、そこを止めないと他者と共有できる形での自己を作りえないということになっているのでは。

少なくとも「私は●●です」の「●●」に該当する名称として自己を規定するということは、動いている自己を止めるということなので。

しかし、動きを止めてしまうと「動き続ける自己が自分である」という自己はなくなってしまうので自分ではなくなってしまう。

というのはどうしたらいいんだろうか、と一瞬悩んだけど、この年になって変わるかというとそういうわけでもないので、悩むのをやめました。