Cocco Lifestyle blog

日々の「実験」について書いてます。壮大な自由研究帳 → 幹細胞みたいになってます。機能が分化した別館も併せてよろしくお願いします

体験が意味記憶化したときに救いは訪れる

記憶とは人間の根幹をなすものだと思います。

記憶は最も心理学らしい分野だと思いますが、記憶が心理学の専売特許かといえば当然そうではなくて、文学でも当然扱われますし、神経基盤の話であっても動物の話であっても関係してきます。

 

今個人的にホットなのが、エピソード記憶意味記憶の往還です。

エピソード記憶とは、個人的な記憶、文脈つきの記憶、思い出、そういったものです。

意味記憶とは、そういった個別の情報が脱落して芯だけになった記憶です。一般的な記憶という言い方もされます。

 

個人の体験には、その場ですごく良かったと思えるものもあれば、意味不明でよくわからないけど忘れることができないままずっと持ち続けているものもあります。

良かったと思えるものは案外すぐに忘れることができます。

意味不明のものはことあるごとに思い出されたりします。こういう状況はもしかしたらPTSDと呼ばれる心理現象とオーバーラップするところがあるかもしれません。

 

 

人は理不尽でなすすべのない体験をしたときに、自分なりの意味づけをしようと努力します。

 

自分が悪かった。

相手が悪かった。

なぜならば、うんたらかんたら。

 

そのうちに、自分も悪かった、相手も悪かった、という感じに移行していきます。

ここらへんになると、かなり楽になります。

自分が悪かった、相手が悪かった、の時点では、かなりしんどいですけど。

 

そのうちに、自分が、相手が、というアドレスが脱落してくる。

個人のアドレスが脱落し始めると、自分と相手を取り巻く状況が見えてくる。

 ある状況に埋没したふたり。

そういう位置づけが見てくる。

 

そうなると、相手の気持ちが見えてくる。

自分の客観的な行いが見えてくる。

 

相手が悪いわけではなかった。

自分が悪いわけではなかった。

ある状況にいただけであった。

 

そこらへんまでくると、大抵は苦しくなくなるし、思い出す頻度も減ってくる。

あとは自然に任せていればいいかもしれない。

 

プロセスとしてはまだ先があって、ふたりを取り巻いていた状況さえ消えて、動きしか残らなくなるし、善悪の判断もどこかへ消える。

この時点で意味記憶≒概念化したんだなーと感じます。

 

体験は消えませんが、記憶は変質していくのであって、個人としての記憶≒エピソード記憶の中から個人の成分が抜けていくことが、救いになっていくのだなーと感じます。

 

逆に、個人の成分を消したくない、消されると自分を貶められたような気分になることもあります。

そういうときは、無理に消す必要はないのだと思います。