Cocco Lifestyle blog

日々の「実験」について書いてます。壮大な自由研究帳 → 幹細胞みたいになってます。機能が分化した別館も併せてよろしくお願いします

アウフヘーベンしたい

さっきネットで今年の流行語大賞の話が出ていて、その中に、小池さんが言ったらしき「アウフヘーベン」という言葉が上がっているそうな。

 

小池さん、そんなにアウフヘーベンを連発してたんやって感じですが、流行るほどはみんな言ってないですよね。

アウフヘーベンの意味を分かってみんな言ってくれるくらい流行っていたら、私しあわせって感じなんですけど。

 

アウフヘーベンっていうのは、これが弁証法的理解として正しいかは分かりませんが、

 

たとえば、

 

政党Aと政党Bがあったとする。

 

政党Aも正当Bも、国民の生活を向上させたいという目標を持っていたとする。

 

しかし、政党Aと政党Bでは、目標へ至るルートが全く違っている。

 

政党Aと政党Bが喧々諤々議論した。

 

その結果、政党Aと政党Bが主張していたルートとは全く違うルートを思いつき、試してみたらうまくいった。

 

そういうイメージです。

 

アウフヘーベンは、「止揚」という言葉で訳されます。

 

止揚 - Wikipedia

 

  • あるものをそのものとしては否定するが,契機として保存し,より高い段階で生かすこと。
  • 矛盾する諸要素を,対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。

という二つの意味を有する[1]

ドイツ語の aufheben には、廃棄する・否定するという意味と保存する・高めるという二様の意味があり、ヘーゲルはこの言葉を用いて弁証法的発展を説明した(ヘーゲル弁証法)。古いものが否定されて新しいものが現れる際、古いものが全面的に捨て去られるのでなく、古いものが持っている内容のうち積極的な要素が新しく高い段階として保持される。

このように、弁証法では、否定を発展の契機としてとらえており、のちに弁証法的唯物論が登場すると、「否定の否定の法則」あるいは「らせん的発展」として自然や社会・思考の発展の過程で広く作用していると唱えられるようになった。

 

アウフヘーベンあるいは止揚と言ったときに、私は、他者との対話的な側面を思い浮かべてしまうのですが、それは、ヴィゴツキー「再発見」からの社会文化的視点が対話的な側面を多く含むからなのか?

 

元の弁証法というものが、個人内部の思考のことを言っているのか、対話を言っているのか、もっと広い社会的なことを言っているのかは知りません。

 

しかし、ウィキペディアにおける止揚アウフヘーベン)の2つの側面を、あまりこだわらずにいろんな側面に適用可能かを考えると、

 

 

という気がします。

 

異質なものをぶつけ合って、軋轢その他の危機を乗り越えた先には、未知の領域が待っています。

それをアウフヘーベンと呼ぶのではないかという気がします。

 

以前リクルートエージェントで履歴書と職務経歴書を見てもらったときに、リクルートエージェントの方が「あなたのやってきたことは止揚ですよね」というようなことをおっしゃいました。

 

電話で「しよう」と言われても何のことか分からず、理解するのに2,3秒かかりましたが、確かにそうです。

解決策というものは、今は見えていないその先にあると思っています。

というのを、ただの紙切れから読み取るこの人すごいなーと思ったりしました。

 

私、そういうのが大好きなんです。

だから、アウフヘーベンが流行るくらいになって欲しいと思います。

 

しかし、ちょっと難しいのかなって気もします。

全体的に忍耐力が弱まっているから。

忍耐力が弱まって、規定路線で行くかキレるかどちらか。

そういうことが多い気がします。

 

アウフヘーベンは、忍耐力が必要な気がします。

ギリギリまで粘る厚かましさも必要です。

その先に、すっと楽になる領域が広がっているのですが。

 

 

発達とはアウフヘーベンである。

と言い切ってもいいくらい、非線形のものが好き。

 

最近なんとなく中だるみな気がしていますが、人間関係においてアウフヘーベンを経験する機会が減っているからだとうことに気づきました。

 

アウフヘーベン、残念ですが、日本では流行らないでしょう。

しかし、そういうのが好きな人は、少数ながら存在していることも確かで。

対話の中でアウフヘーベンできるような環境を探しに行きたいと思います。