Cocco Lifestyle blog

日々の「実験」について書いてます。壮大な自由研究帳 → 幹細胞みたいになってます。機能が分化した別館も併せてよろしくお願いします

リア充は早期完了型か?

コストコの買出しから帰ってきて一息ついていたときに読んだ記事。

 

toyokeizai.net

 

スクールカーストというものが私にはよく分からないので(30年前の中高になかったわけではなくて、私がカースト外に居ただけの話だと思います)、この手の話は飲み込めないことも多いのですが、

 

リア充と意識高い系の定義、

 

リア充の定義は次のとおりだ。

1. 土地に土着している(”ジモティ”と呼ばれることもある)
2. その土地は両親または親戚などから相続したもの(または相続する予定)
3. スクールカーストでは第一階級(支配層)に属していた
4. 青春時代に自明の支配階級だったので、承認欲求が満たされており、他者へのアピールの必要性を有さない
5. 自己評価は妥当で特にプライドが高いわけではない
 

一方、「意識高い系」の定義は「リア充」とは正反対。

1. 土地に土着していない
2. 土地を両親または親族などから相続していない
3. スクールカーストでは第二階級以下(被支配階級)に属していた
4. 青春時代に被支配階級だったため、承認経験が満たされておらず、その反動で、必要以上に他者にアピールする(承認を欲している)
5. 自己評価が不当に高い(異様にプライドが高い)

 

を読んで、マーシャのアイデンティティ・ステイタスと対応しそうだと感じたので、ちょっと分かったような気になりました。

 

マーシャのアイデンティティ・ステイタスは、青年期におけるアイデンティティの状態を分類したものです。

 

(参考)青年期の自我同一性の達成に関する研究動向
-現代日本における同一性形成要因を探る-

http://www.u-gakugei.ac.jp/~nmatsuo/hato-kadai.htm

 

リンク先をちょっとスクロールすると、「Table 1 4つの同一性地位(identity status)」という表が出てきます。

 

「意識高い系」は、最初にリンクした記事における定義に従うのであれば、同一性拡散(危機後)に該当するのではと感じました。

 

教科書に従うのであれば、青年期というのは、自分とは何ぞやという問いかけを通じて、様々なことに挑戦することで、自分から見た自己像と他者から見た自己像を一致させ、社会に出て行くための自己を作っていく時期ということになります。

マーシャによるアイデンティティ・ステイタスの分類における同一性拡散(危機後)というのは、自分とは何ぞやという問いかけは始まっているものの、その答えを出すためのアクションを起こしていない状態です。

「全てのことが可能だし可能なままにしておかなければならない.」というのは、可能性というのを思い描きはしても、行動してしまったら可能性のある自分がなくなってしまうかもしれないとか、失敗したらどうしようとか、そういう感じなので、アクションを起こさないまま夢だけ持っている状態ともいえます。

 

この状態だったら、そりゃ会社で使い物にならんわな。

中高大くらいの人間関係にどっぷり浸かりすぎると、他人との関係に振り回されすぎて、実力をつける余白がなくなるってことですね。

 

という総括を先にしておいて、タイトルのリア充のほう。

 

早期完了は私にとって異質すぎてよく分からん存在というか、今年に入ってやっと存在を認識したというか。

それで、うっすらとどういう性質なんだろうと思いながら暮らしていたりするんですが、

 

一番最初にリンクした記事の「リア充」の定義だと、リア充は早期完了になる気がするな。

 

早期完了の定義は、自分とは何ぞやという問いかけはないが、自分の課題については積極的に取り組んでいる、そして、

 

自分の目標と親の目標の間に不協和がない.どんな体験も,幼児期以来の信念を増強するだけになっている.硬さ(融通のきかなさ)が特徴的.

http://www.u-gakugei.ac.jp/~nmatsuo/hato-kadai.htm

 

という状態です。

 

こういう人たちが、学校の上位にいるわけですねー。

なるほど。

 

何ヶ月か前に、経産省の若手のペーパーの話が流行りました。

その前年に、若手のインタビュー記事がどこかに載っていて、

 

http://scirex.grips.ac.jp/programs/download/Quartterly-no2-8-2016-02.pdf

 

この中に、「ぼくらが当たり前と思っている定年制」とか、戦前や江戸時代は高齢者も死ぬまで働いていたとかいう言葉が載っていたりします。

 

これ読んで、本気でびっくりしたんですが、私、定年制を当たり前と思ったことないですけど。。。。60歳で仕事をやめるつもりもないですけど。。。。

(終身雇用制と定年制は別ってことでいいんだよね?終身雇用制は崩れているけど、定年制はまだ残っていますよねっていう意味で言ったんですよね?もし、定年制≒終身雇用制というつもりなのであれば、二度びっくりなんですけど)

 

これって、発言者の保護者も定年をすんなりと迎えられそうなご家庭に育ち、周囲もそうであるってことですよね。

大学を卒業したら勤めて定年まで働く、みたいな。

 

この発言を読んで、早期完了ってこういうことかあーっていうのが少し分かった気がしたんですが、

 

一番上にリンクした記事におけるリア充が早期完了に該当するというのがある程度的を得ているとするならば、

 

現在の若年層は早期完了型が支配している

 

ということになるのではないか。

 

 

そういう目線を持ってみれば、大学生と接触して感じる息苦しさもなんか分かるなー。

 

なぜならば、早期完了型は、自分以外の価値観を認める必要性を感じていないから。

言い換えると非常に小さな世界に住んでいる。

 

スクールカーストというのが存在している社会に暮らしている中高大生は、非常に小さな世界に住んでいる人が頂点であって、頂点以下の人は、その小さな世界に暮らしている人を目指していたりするわけだ。

 

教科書的には、青年期というのは、広い世界に開かれていくための通過儀礼でもあります。

自分と格闘することで、磨かれていくものがある。

 

知性とは、異質なものと出会い闘い呑み込んでいく過程で磨かれます。

 

意識高い系≒同一性拡散(危機前)であり、リア充≒早期完了であるならば、このどちらもが、異質なものとの出会いを回避してきた人たちであるといえるのではないか。

同質のものの中での小さな小さな闘い。

それは、思考力を育てる機会を奪うことになる気がします。

中高時代(思春期)というのは、まだ見ぬ恋愛とか世界とかに憧れたり、自分たちを縛る社会制度に反発したりする時期ですが、自分の周りにはない世界に手を伸ばそうと格闘することで、自ら考えて行動するという意味での知性が培われていく気がします。

 

それが、片やカーストの頂点であるが故に外の世界への動機が育たず、方やカーストで打ちのめされているが故に外の世界への興味が持てないというのは。

 

 

生まれた土地にずっといてその中で生きていくというのは、人生としてもありだろうけれども、それにしても、選択肢が多様化している状況において、子ども時代の生活をずっと続けられるわけではない。

 

変化を迫られたときにどうするのか。

 

と考えると、

 

今年話題になった経産省の若手のペーパー

http://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdf

のタイトル、

 

不安な個人、立ちすくむ国家

~モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか~

 

が意味ありげに見えてきます。

 

個人が不安なのでも、国家が立ちすくんでいるわけでもなくて、書いたあなたたちが不安で立ちすくんでいるだけじゃないの?

 

だって、あなたたちが拠り所にしていた定年制なんてとっくの昔にないんだよね。

あなたたちのご両親がたどってきた道は、あなたたちは辿れないかもしれない。

あなたたちは運よく定年まで省庁に勤められるかもしれないけど、定年制がすでに崩壊した人たちの人生モデルを作らなきゃいけない。

でも、自分の中にはアイデアがない。

ってことじゃないの?

 

という意地悪なことばを投げかけたくなります。

 

失われた20年、あるいは失われた30年と言われる時代が続いて、人生や生活をすでに変化させている人は山ほどいる。

戦前や江戸時代にモデルを求めなくても、周りを見回したらそういう人がごまんといるはずなのに。

 

なぜ見えないのかが不思議。

 

 

 変化多いこの時代にあって、長い目で見れば、スクールカーストの支配層にいるということが、あまりいいように作用しない気がします。

土地があれば一生大丈夫という時代でもなくなりかけていますし。家賃を払わなくていいとかは当然アドバンテージにはなりますが、土地だけあっても雇用は守られないとどうしようもなくなるというのは当然ありますし。

 

中高時代に、「自分はちっぽけな存在である」と実感するのは、もしかしたら必要なのかもしれません。

ちっぽけだけど、何がしか考えて行動を取ることで、少しずつ変わっていくことを実感する。

 

これは、ひとりでできるかというとそういう訳ではなくて、

 

ひとりになれる環境

 

を整えてくれる外部協力者が必要、という気がしなくもないです。