Cocco Lifestyle blog

日々の「実験」について書いてます。壮大な自由研究帳になりつつあります

優生学についてのめっちゃ粗い想像

さきほど書いた記事です。

 

coccolifestyle.hatenadiary.jp

ガルについての研究書をリンクしたので、

 

ゴルトンの優生学についてのサイトもリンクしようかどうしようか迷って、一度やめたんですけど、

 

参考:

Between Genetics and Statistics

 

を読み直していたら、

 

ゴルトンの論文が1865年、『遺伝的天才』の出版が1969年。

ダーウィンの『種の起源』の出版が1859年。

ほぼ同時代の著作なんだーというのに気づいて、面白いなーと思った次第。

実際に、『種の起源』はゴルトンに影響を与えたそうです。

 

 

 

リンク先のゴルトンを読んでいると「人間の改良」というショッキングな言葉が出てきます。

人の資質を家畜などの品種改良のアナロジーとしてみようという考え方です。

優生学は、後にナチスドイツに取り入れられ、控えめに言っても非道な政策が繰り広げられました。

日本でも第二次大戦後であっても優生保護法があり、実際に不妊手術を施された人が多数いらっしゃるそうです。

 

ゴルトン自身は人間の才能の改善を目的として、優秀な男女をかけあわせるという考えに至ったようですが、後に科学的根拠として統計的な裏づけを取ったら、そんなに簡単にはいかなかったようです。

なぜならば、優秀な男女から生まれた子どもの資質は親のそれよりも平均に近づくという現象が見られることがゴルトンの手によって明らかになったからです。

 

優秀な男女をかけあわせるというのは、優生学という観点から見ると、男女の営みに人為的な介入を行うことです。

このような人為的な介入を行う際に問題となってくるのは、

 

優秀さをどのようなものであると定義づけるか:社会的な価値判断と密接に関連

優秀さをどのように測るか:測る手段はその当時の人たちは持ち合わせていなかった(現在は、ある程度の指標はあります)

どうやって実施するか:非常に残忍な行為を引き起こすため倫理的にアウト。※これはハクスリーの批判ですが、現代の価値観からいってもアウトでしょう。優生学は「優れた人を増やす」という側面と「劣った人を減らす」という側面があるようですが、いずれにせよ、人らしい生き方からは乖離した状況を強要することになるでしょう。

 

といった内容がリンク先には書かれていました。

 

優生学というと、非常に極端な印象を受けますが、もうちょっと一般化した言い方をすると、「私たちが開放系に出会ったときにどういう考え方を持ち対処するのか」ということを研究上および実際上示したといえるのではないかと思ったりします。

 

ここから先は、かなり粗い考えになりますので、話半分で読んでいただきたいですが、

 

種の起源』と『遺伝的天才』は19世紀後半、同時代の著作であると書きました。

生態系は人間も含めて開放系です。

どういう要因があるかについてすべて特定することは不可能で、変化についての予測を行うのが非常に難しいです。

ダーウィンが調査したガラパゴス諸島は、種の移動があまりないという点では閉鎖系であるといえますが、環境への適応という点からは開放系といえるのではないかと思ったりします。

こういう言い方はあんまりしないと思いますが。

 

開放系を研究する際には、条件設定が肝です。

無数にある条件の中から重要なものをピックアップするという作業です。

条件を絞ったときに何が起こるかで、開放系の変化要因が明らかになっていきます。

条件を絞って明らかにされた結果は、元の開放系に戻していく作業が必要です。

明らかにされた結果が、元の環境でも機能するかどうか。

機能する研究は残り、機能しない研究は消えます。

 

ゴルトンのケースでいうと、統計学における「平均への回帰」は今でも残っていて重要な概念です。

しかし、品種改良としての優生学は役に立たないでしょう。

なぜならば、ゴルトンには見えていなかった要因がありすぎるから。

優秀な男女が結婚して子どもをもうけたとする。

その子どもを虐待同然の環境で育てたらどうなるか。

かなりの確率でその子どもの発達は阻害されます。

すなわちゴルトンの考え方には、生育環境の要因が入っていません。

 

発達は遺伝と環境との相互作用によって実現されるというのは現代においては覆ることはないように思います。

もちろん、初期の運動発達のように成熟の要因が相対的に大きいものもありますが、それにしても、成熟の要因とは時間軸を含むものであるので、「遺伝的要素」だけ問題にするゴルトンの考え方とは一線を画するように思います。

また、ゴルトンのいう「遺伝」というのは、すでに育ちきった男女の行動面等を見て言うものであると思われます。

しかしながら、成人男女の行動は、遺伝と環境との相互作用により得たものであると思われ、ゴルトンのいう「遺伝」は看板に偽りありといわざるを得ません。

 

もちろん、ゴルトンの時代には、遺伝と環境の相互作用などという考え方はありませんでしたので、この批判は妥当なものではありません。

 

むしろ、ゴルトンの研究態度から、私たちが学ぶところがあると思います。

 

開放系における無数の要因について考えるとき、

 

1.無数にある要因から暫定的にいくつかの要因をピックアップする

 

と捉えるか、

 

2.ピックアップした要因しか存在しない

 

と捉えるかで、研究態度は全く違ってきます。

また、現実場面においても、1および2のような態度の違いは散見されます。

 

ピックアップした要因しか存在しないと思ってしまうひとつの態度としては、「何かほしい結果があって、その結果しか見えていない」というものが考えられます。

 

 

そろそろまた妄想度がアップしてきそうなので、以下取り扱い注意です。

 

 

「何か欲しい結果」というのは、ゴルトンにとっては人の心性や遺伝的性質の解明であったかもしれません。

 

しかしながら、ゴルトンの思想に飛びついた国々(ナチスドイツだけではない)にとっては、「優秀な」人間を増やし「劣った」人間を減らすという結果が欲しかったと思われます。

ネットの情報をいろいろ見ておりますと、この優生学的な思想は、プリミティブなものを含めると古代から存在しているものと思われます。

そして、人を選別する暗黙の動機に、「学問上の」根拠が乗っかると、政策上の残虐行為や社会での差別を生むということになっているのではないかという気がします。

 

 

優生学的なものの見方や態度は、過去のものになったかどうかというと、形を変えて機能しているのではないかと思われます。

 

優秀な人材を確保する

 

という言葉を腐るほど目にしてきました。

 

この言葉が即優生学的価値観や態度に結びつくかというとそういう訳ではないけれども、何らかの条件が重なると、結びつく気がします。

 

優秀な人材を育てる

 

という観点と手段があれば、セーフな気がします。

働いてもらいながら育てていくという価値観があれば、適性を見ながら採用する=選別するということをやってもそれは人間の生きる環境として機能する気がします。

 

しかし、

 

優秀な人材が欲しい

 

とだけ思ったときに、その人の人格を無視して優劣で選別するという事態が発するのではないだろうか。

その人の人格を無視して冷たく接したとき、子どもは育ちません。

それは、愛着の理論からも、さまざまな現実からも明らかです。

このことは、幼い子どもだけにあてはまるかというとそうではなくて、大人にも適用可能です。もう2,3年前になってしまったかもしれませんが、ある社労士がパワハラによって社員を辞めさせる方法をブログで指南して物議をかもしました。

 

 失われた20年(最近は失われた30年という言葉も目にしますが)の間、私たちは人と一緒にやっていく、人を育てるということをおろそかにして、すでに出来上がった優秀な人を求め続けました。

その結果の経済の低迷、貧困層の増加なのではないだろうか。

 

私たちが育てる動機を失い優劣の選別のみに汲々としたとき、優性政策ばりの非道が蔓延するのかもしれませんし、ブラック企業で精神を病む人がこれだけクローズアップされているというのは、もしかしたらすでにその非道に私たちは足を踏み入れているのかもしれません。