Cocco Lifestyle blog

日々の「実験」について書いてます。壮大な自由研究帳になりつつあります

人に対する飽くなき興味はどこから来るのか

あまりこういうことを書く人間ではありませんが、小林麻央さんに謹んで哀悼の意を表します。

自宅に戻られたというのをネットで見かけてもしかしてと思いましたが、それにしても早すぎると感じました。

人としての尊厳を教えていただいた気持ちになりました。

遺されたご家族は、さまざまな気持ちが去来していることと思います。

ご自身の思いに翻弄されつつも、どうか一筋の安らぎがあることを祈ります。

「まだできたことがあるのではないか」という気持ちがあるかもしれません。

ご家族がそういう気持ちになることは当然ですが、部外者が口を差し挟むのは控えたいと思います。

20年近く前になってしまいましたが、隣家の火事がもとで住む場所がなくなりました。隣家の過失で一人亡くなっています。そのときに、私の周りには隣家の過失を責める人がいました。また、亡くなったものを一緒に悼んでくれる人がいました。当時の私にとってどちらが力になったかというと、一緒に悲しんでくれる人でした。その人は、悲しみに溺れはせずに一緒に悲しんでくれました。

そういう経験があるので、ご家族に一緒に気持ちを分かち合ってくれる人、安らぎを与えてくれる人がいることを祈ります。

 

☆ ★ ☆

 

と書きつつ、人生というものは本当に終わらないものだなーと自分のことを思います。

心理学を道しるべにした自分理解が終わったと感じたのですが、この感覚は、博士課程に進んだ頃に感じたのと同じだと思いました。

修士課程もやはり保育の場、子どもの姿を道しるべにして、自分に対する理解を試みていた時期でした。

博士課程に入ってしばらくしたとき、自分理解の過程が終わって、対象としての子ども理解に入ったと思いました。

 

それからしばらくは、子ども理解、保育の理解、親子の理解という形で他者理解を深め、数年前から自己理解の過程に入り、今、自己理解を抜けて他者理解のフェイズに入ったという感じでしょうか。

 

ここ2、3年の自己理解はエリクソンを基軸に行われていました。

それが一段落して、心理学ももういいやと感じて、私はどこへ行くのだろう?

エアポケットに入ったようだ。

 

それが抜けたと思ったら、またむくむくと人に対する興味が沸き起こっています。

 

この興味はどこから来るのだろうといつも疑問に思うのですが。

 

私からすると、人に対する興味は、状況と緊密に結びついていて、これまでは子どもおよび子どもをめぐる人々だったわけですが、ここのところそれが変わってきている自覚はあります。

 

たとえば思春期。

思春期の自己が形成される環境とはどんなものか。

青年期にありがちな自己の形成だけ見ていてもこの疑問は解決されません。

 

たとえば男性の生涯発達。

日本の女性のライフコースはかなり研究されています。

社会状況によるマイナーチェンジはあれど、大筋はそれほど変わっていないと感じます。

では男性はどうだろう?

終身雇用制が事実上雲散霧消してしまったといっても過言ではない現在、男性のライフコースはどうなっているのだろう?

いろいろ取りざたされてはいますが、それらは社会状況(特に貧困)といわくいいがたく結びついていて、学問領域で区切るとするならば、社会学に入るものでしょう。私がむしろむしろ知りたいのは、男性の内的世界であったりします。

自分の人生を刷新していくものとして、あるいは、周囲との関係を更新していくものとして、という、ある意味健全な視点から捉えることはできないだろうか。

 

 これらの疑問を実際に明らかにしていく動機があるかどうかは今のところ不明ですが、結局は「人」なのか。しかも生身に近い人。

アカデミックな世界に乗り切れなかったのは、生身に近い人間に興味を持ちながら、臨床畑にも社会学畑にも乗り切れずに心理学でやってきたということがあるのだなーと改めて思うわけですが、アカデミックな世界に日和ることもできずに捨て去ろうと持ったら、生身に近い人への興味は残るどころかエクストラクトした形で表れてくるという。