読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Cocco Lifestyle blog

日々の「実験」について書いてます

毒家族にかまけすぎると大切なものが見えないので、この話はこれにて終了

予約投稿で書いているので、この記事がアップされる頃には、次の部屋に引っ越していると思います。

 

祐天寺には4年いました。

次は町田方面です。

 

祐天寺に引っ越す前と祐天寺を離れる直前に姉と話をしました。

 

直前の話は、この前に書いた記事ですが、

この2回の会話のパターンと話の内容が、全く同じであることに気づきました。

 

 

要は、あんたいつまでそんな怪しげなことやってんの?

ってことです。

 

今回は、その話が出たときに、

姉ちゃんは、私がねずみ講みたいなのをやってるって思ってるわけやね。

と聞いてみました。

 

そしたら、そういうわけやないけどとモゴモゴ言っていました。

 

姉が言っていることも分からないではないです。

 

私はねずみ講的なものには手を出していませんが、そうでなくても際限なく金を出し続けなければならい組織というのもあって、

そういうのにハマっているわけではないよね、

っていうのは家族として確認したいのは当然でしょう。

 

こちら側が収益をあげられる見込みのない商法やメソッドを、見込みがあるからという触れ込みで売りつけるのは、商売をする上であかんやろうというのはありますが、倫理上あかんやろうというのもあります。

 

今、私はスピリチュアル系の人間関係から距離をおいていますが、

なぜそういうことにしたかというと、

少し大きな仕事になったときに、こちらが当然貰うはずの報酬を払わないで済まそうとする人にそこそこ出会ったからです。

これは、商売をする上での見込みが甘いというのもありますが、倫理観に欠けているという見方もできるなと思います。

個人セッションでのお客さんが、ほぼキャンセルなしの不払いなしだったのと対照的です。

 

倫理の欠如という意味で言ったら、姉がやっていることも実はそれほど変わりはないよねと思います。

激昂して脅しのような物言いになって後から心底反省したような電話をかけてくるということも頻繁にありました。

祐天寺に移る前の会話の中で、それは、DVや虐待と同じやり方だから、やめた方がいいよ、と言いました。

そして、この前の会話でも同じようなパターンになったので、そういう脅しはもうきかないって4年前に言ったよね、と言ったら、一旦ガチャンと切られて、30分後に再び泣きながら謝る電話がかかってきました。

 

今回の電話時間の合計は30分以上にもなり、その電話を切った後、この人は4年間結局何も進歩しなかったのだなあと感慨深い気持ちになりました。

 

この姉の脅しと泣きのやり方は、実は、仕事上で不払いを起こそうとした人のやり方にも共通しています。

 

倫理の欠如というのは、冷静に考えればおかしいことを、恐怖心や罪悪感を抱かせるようなやり方で通そうとするという意味です。

 

 

そういうわけで、姉と少し距離をおこうと考えたわけですが、

 

距離を置くことに決めたら、

 

今度は、

 

温かいものがしみこんできました。

 

温かいものというのは、

今まで関わりあいになってきた人との温かい関係であったり、協力し合ったり、ときにはケンカをしたりしてきた、そのときに培ってきた感覚や感情でした。

 

こんなにそばに温かいものがあったのに、家族関係に密着していたが故に、その存在に気づかなかった。

頭では分かっていました。

けど、本当には分かっていなかった。

 

温かいものが染み込んできて、それが私のベースになりました。

温かいものがベースにあると、自信がつきます。

 

私の家族は、確かにちょっと変で大変で、縁を切りたいと思うこともしばしばあるけれども、縁は切れないでしょう。

けれども、その縁にべったり貼り付いているのではなく、距離をおけるようになったときに、自分が培ってきた違う関係の意味が分かってくるのだなと思いました。

 

生きている以上、誰かが優しくしてくれたり、勇気づけてくれたりした経験がゼロではないはずなんです。

その経験を軸に持ってこれると、生きやすくなるんだということを改めて感じました。

 

なので、家族のことはこれからも大変なことがあるかもしれませんが(親もヨボヨボだし)、私の軸は、家を出てから出会ってきた人たちとの関係、これから出会う人たちとの関係に、やっと移していけるように思います。

 

これは、本来ならば、思春期にやることだと思います。

しかし、30年経ってやる機会があるというのも、まあいいのかな、という気もします。

 

家族と縁を切ることはない。

けれども、ある程度の距離を置くことはやってもよい。

 

家族は、関係が変わったら、ごちゃごちゃ言ってきます。

しかし、それは、中学時代や高校時代に友だちと遅くまで出かけていたら、親が怒るというのとそう変わりありません。

子どもの行動範囲が広がるときに、親は戸惑いますし怒ります。それは当然の話で、やってはいけないことをやる危険性にも目を光らせていなければならない。

けれども、子どもはいつか親の手を離れていくものである。

親側もそれに慣れていかなければならないことも事実。

 

というのが、どういう年齢であっても起こるってことなんだろうと思います。

関係の変化に対して、他の家族がごちゃごちゃ言う権利はあります。

それに対して、ある程度はこちらも答えることが必要で、可能であれば双方が納得する落としどころがみつかるのがベストです。

しかし、そうはならない場合もあります。

関係の変化に対して、実害を蒙るような形で相手が応答してくる場合もあります。

そういうときには、緊急避難的に関係を断つこともやむなし、最悪一生縁を切らなければならない場合もあるでしょう。

 

親や家族は愛して当たり前という意見もありますが、私は必ずしもそうは思いません。

愛することができればそれがベストですが、家族を愛することができるって、もしかして、お互いが作り上げてきた関係の結果なのでは?

という気がします。

大人の場合は、一旦親の手を離れて、一定の年数が経ったときに、鮭が生まれた川に戻るかのように、自然と戻りたいと思えるかどうかなんだと思います。

 

 私は親になったことがないので想像でしかありませんが、親が想像する子どもの愛というのは、幼い子どもが無心に親を慕う姿ではないかと思います。

その姿を大人になったわが子に要求するのは無理な話で、外の世界に出て親のありがたみを再認識するかどうか、ということなんじゃないかと思います。

 

育ててくれたありがたみは、恩師と10年通った保育園にはとても感じています。

なのに、どうして親や家族に感じられないんだろう?と自分でも不思議に思います。

私はどこか欠落しているのではないだろうかという疑問が、この期に及んでつきまというます。

 

それでも、ここは、離れるタイミングなんだなーと思います。

だって、やっと外界に出ようとしている鮭の子どもなんですもん、私。

川に戻ってきたときに、親はいないかもしれませんが、この年ですから覚悟を決めるしかないですね。

思春期の親離れ子離れは真剣にやっておいた方がいいらしいと再認識する今日この頃。

 

そういうことで、前のFCブログではかなりごちゃごちゃ書いていたが、はてなブログでは殆ど書かなくていいはずだった家族関係の話は、これにて終了にしたいと思います。