前回の記事の続き。
私の家族がものすごく不器用だというのは、他の面にも現れていて、
ダメだしは得意だけど、励ますとか応援するのは苦手。
もうちょっといえば、ダメだし、批判、嫌味のボキャブラリとレトリックは豊富に持っているけれども、相手を鼓舞するとか、労うとか、そういうボキャブラリは持っていない。
だから、言いたいことがごっちゃになっていて、そのまま話をすると、相手に嫌味を言っていると誤解されて、気分を害されてしまう。
随分損な生き方だと思います。
同じ状況であっても「だからダメなんだ」という言い方で可能性を叩き潰すよりは、いけそうな方向を探して進む(もしくは撤退する)ほうがいくらかいいと思うんですけど。
私がタロット占いを習った先生は、「タロットは、本気で応援するためのツールである」と言っていました。
正確にはちょっと違うんですけど。
本気で応援するためには、本気で相手の可能性を信じないと成り立たない面があって、
私の場合は、どういう訳か、無防備に相手の成功を確信していることが多いです。
成功というのは、世俗的な意味での成功ではなくて、必ず道は続いているという意味です。
袋小路であるように見えても、周りを見渡せば、必ず道は続いています。
そういう意味での成功です。
第一志望の企業に就職できるとか、思っていた相手と付き合えるとか、そういう「結果」をもって成功と判断できるかどうかは、いまいちあやしいです。
思っていた企業は実は倒産目前だったりとかブラック企業だったりとか、そういうこともあるわけです。
その企業に落ちたから、違う職場で充実した仕事をするチャンスが回ってきたりすることがあるかもしれません。
活動と休息を繰り返していく限りは、必ず道が続いているのだと思います。
それが、自分の意志や状況に沿っているかはちょっと分からないので、自分マップを見てみようよ、っていうのが私が提供しているタロット占いです。
生きている限りはかならず道は続いている。
その道を選ぶ地図がタロット占いである。
「ダメだ」と言い続けたらどうなるか。
周りが「ダメだ」と言い続けたら、その人はずっと下を向いたままで道を探すのを諦めてしまいます。
学習性無力感ともいいます。
普通、学びというものは、親や先生や年長者がある事柄の一部を子どもに移して、徐々にその移す事柄を増やしていき、どこかで自分だけでできるようになる、といった性質があります。
サポートつきからサポートなしへの移行です。
周囲から「ダメだ」と言われることは、そのサポートが得られないことを意味します。
その結果、自分ひとりではできないので「自分はダメだ」と思い込んでしまうか、私みたいに、どういうわけか「ダメじゃないよ、道はあるよ」と思い続けられるか、両極端な気がします。
どうして「ダメだ」と言われ続けても「道はある」と思えるのかというと、実際に起こった出来事を観察して実行するサイクルが、かなり早いうちから出来上がっていたからだと思います。
実体験からくることだから、自分ではないほかの人に対しても無条件に「大丈夫、道はある」と思えるんだと思います。
年長者からのサポートは、肯定的に働くと「応援」として機能します。
できるかできないか分からないことは、不安を伴うことも多いです。
けれども、サポートがあったり、やってみようと励ましてもらえたりすると、案外すんなりできたりします。
そのことは、研究で保育園に通っていたときにたくさん目の当たりにしましたし、私自身も随分勇気づけてもらいました。
だから、私も応援したいし応援して欲しい。
応援するけど応援してもらえない関係もあります。
そういう関係は、早晩距離が離れるか縁が切れるかしています。
教えるのが嫌いな訳ではないけれども、先生に向いてないと思うのは、先生の仕事には、もれなく評価がついてくることです。
何かができるようになることと、担当する科目の評価とは、連動しないこともしばしばです。
この人にとっては非常に重要なことを学んだと思える場合でも、そのことが、科目の評価基準に合致していなければ評価に反映されません。
そのことを相手に伝えられればまだしも、伝える機会がないことが殆どです。
伝えられなければ、相手は、「学んだ」と実感することができない場合も多いです。
となると、この長い時間をかけて、相手は何を学んだんだろう?と思ったりします。
っていう状況は、非常にフラストレーションが溜まるんですよね。
自分としては。
そういう意味では、相手との合意により枠に囚われずに進められるタロット占いの方が好きです。