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Cocco Lifestyle blog

日々の「実験」について書いてます

【雑誌】特集・還って来たヒステリー 精神医療no.42

「解離」が気になっています。

人付き合いをしていく間に、「あれ?」と思うことがちょこちょこあります。

 

こういう事態であればこういうことが起こるであろうという予測を立てながら、日々暮らしていくわけですが、その予測が「奇妙な」具合に成り立たない場合というのがあって、その成り立たなさ具合を分析することも、人付き合いを円滑に進めていくためにも自分を防衛するためにも必要なのかなと思っています。

私は臨床畑の人間ではないので、あくまで素人が、日常を円滑に進めるための情報として、ということで、人を判断してどうこうできる立場にはありませんが。

 

何が「奇妙か」と言われると、「この人はこういう際にはこのように振舞うだろう」という予測が裏切られる。

予測が裏切られたときに、私は混乱に陥ります。

何度も付き合っていると、混乱は回避され、あ、またこのパターンだなと思って違う予測が成り立つようになるのですが、それでも何か判然としないものが残る。

 

何が判然としないかと言うと、漠然とした言い方になりますが、その人の「ばらけ具合」が非常に気になる。

なぜ、この人はあのときこういう風に言ったのに、すっかり忘れたかのように振舞えるのだろうか?とか。

 

で、解離です。

 

たとえば、厚労省のページには、だいたいの状態が書いてあります。

www.mhlw.go.jp

もう少し知りたいと思って手に取ったのが、今回の、

 

精神医療 (第4次42号)

精神医療 (第4次42号)

 

 

10年前の雑誌ですが、勉強になりました。

 

精神科の方々のインタビューおよび論文が載っています。

専門の雑誌なので、よく分からんところもありますが、文章自体は分かり易く書いてあると思います。

 

私が理解したところによると、

 

【歴史】

  • 解離の興味は、まずは多重人格から始まった。ドストエフスキーが『二重人格』を出版したのが1846年、精神医学において多重人格が交流したのは、1880年代から1920年にかけてbyパトナム。
  • 同じ頃、ヒステリーの概念がシャルコーらによって確立されていく。
  • 1920年代以降、多重人格の概念は、精神分裂病(今日の統合失調症)関連の概念に吸収。また、ヒステリーは心因性か器質因性かの論争に決着がついたのが1920年。ヒステリー心因説が勝利して、ヒステリー=詐病のような扱いを受けることになる。このような流れを受けて、多重人格、ヒステリーは下火に。
  • 再びヒステリーの問題が復活してきたのが、1970年ごろから。世界的に消費社会へ突入→社会変動、第一次産業に由来する共同体が決定的に崩壊し、また、アメリカのベトナム帰還兵の問題から、トラウマの問題とともに、解離の問題が復活。
  • 日本においては、「ヒステリーが改めて解離として論じられるようになったのは」1990年代に入ってから。軽症化、スペクトラム化を経て現在(=この雑誌が出版されて2006年)に至る。

 

【ヒステリー・解離・抑圧・シャーマニズム

  • ものすごく乱暴にまとめてしまうと、「解離」という状態は、トランス状態あるいは変性意識状態と非常にオーバーラップする状態であり、愛着対象の喪失とも深く関わる状態である。
  • 解離自体は正常範囲のものもある。しかし、正常範囲を逸脱し、社会生活を営めなくなるあるいは営むのに非常に苦労する状態になる、または本人が非常に苦しい状態になると、精神医学の範疇となる。しかし、解離自体は、正常範囲から軽度、中度、重度といったスペクトラムで捉えることが必要。
  • 解離という状態は、社会構造の頑健さ(抑圧の強度と関連)や解離という状態を受け入れる社会的合意があるかどうか(たとえば、シャーマンという職業が受け容れられる社会かどうか)によって、家族や社会での受け容れられ方が違ってくる。
  • 話が前後するが、解離という状態の原型は、シャーマン的なあり方につながってくる。「多重人格性障害の原型は、シャーマン的人格変容と憑依状態」byパトナム(多重人格と解離は、かなり近いものとして捉える)。また、高岡氏は「転換・ヒステリー」を狩猟・漁労文化と、「メランコニー・マーニー」を農業・牧畜文化と関連づけ、そして、その中間としてのアジア的な段階を想定をでいるのではないかと言っている。アジア的というのは吉本隆明の『共同幻想論』における日本型の巫女のあり方からも見ていく必要があるという考え。

【抑圧とスペクトラム

ヒステリーという病態は、それが言われた当時の社会構造とリンクしている。ジャネやフロイトが生きた19世紀末は、抑圧されたものが抑圧するものへ反乱を起こすという形でヒステリーと呼ばれる状態が起こった。

ものすごく大雑把に言えば、理性と本能の葛藤、本能が理性に押さえつけられることにより、本能が無意識の中で一人歩きするということが生じた。

これは、理性と本能という水平の分割である。

しかしながら、現在においては、個人の欲求や本能を押さえつけるだけの力が社会にないため、抑圧の力も緩められる、そして、反乱の力も弱くなる。これは、垂直の分割である。その結果、現在は、いわゆるヒステリーという典型的な症状だけではなく、多様な状態が生起し得る状況になっている(スペクトラム)。

水平の分割と垂直の分割は、p.073の図2笠原の図を参照のこと。水平の分割の機制は抑圧であり、垂直の分割の機制は否認・無視。解離性の障害においては、アメリカのケースでは性的・身体的虐待を聴取することが多いが、日本ではほとんど見られず、少数の例ではあるものの、親からの精神的支配の割合が多い(p.084参照)。これは、解離の機制が、アメリカでは水平の分割が多く、日本では垂直の分割が多いということと繋がるのではないだろうかと推測したりする。

「垂直の分割機制は否認・無視」については、愛着と自律性とも関係しているのでなないかとも思う。

従来の解離症状はパトナムによれば、「健忘および記憶に関する症状と解離過程症状」に分けられるという。解離過程症状とは、「離人感、疎外感、被影響/被干渉体験、解離性幻聴、トランス様状態、交代人格状態、切り替わり行動、解離性思考障害など」

ただし、健忘や多重人格など、分かりやすい病態だけではなくて、臨床的には特定不能の解離性障害が50~60%を占める(DSM-IIIの定義に従った場合)ので、解離性障害を見極めるのは言うほど簡単ではない。

 

というところまで書いてとりあえずアップします。

 

個人的には、解離と愛着対象の喪失の話がすごく興味深かったのですが、この話は、幼児期前期の「自律性 対 恥・疑惑」byエリクソンとセットで見ていくと、生活の自立の話ともつながって、いろいろ見えてくるのですが、文章に落とそうとなると、頭爆発。

いつかまとまったらまた書いて見たいと思います。