Cocco Lifestyle blog

日々の「実験」について書いてます。壮大な自由研究帳になりつつあります

開放系の発想を実現させるために閉鎖系のツールを学ぶ

大学3年生あたりから幼児期の研究を始め、大学院時代は保育園や幼稚園に入り浸り、20数年経った今でも縁は完全には切れておらず、なんとなく大学で教えたりしている日々ですが、

 

幼児期と大学時代の共通点は、発想勝負!でいけるところだよなーと思います。

幼児期は、やりたいことを主体的にやることで力をつけていく時期で、それによって仲間との軋轢もありますし、できない自分も感じたりしますが、それを乗り越えることで、周囲と調整しながら自分を通していくことを学びます。

 

大学時代は、小中高で学んだ基礎的な力をベースに、思考力と実行力を深めていく時期であるといえますが、小中高と大学で学ぶことの違いは、「正解があるかないか」だろうと思います。

 

 

正解がなく、着想点により、いろいろな終着点がある。

そのプロセスがある程度機能するものかどうかは、自分で判断可能になる必要がある。

そういう力を身につけるのが、大学なんだろうと思います。

 

発想勝負ということは、非線形の開放系であるので、どこに行き着くのかは、予想が立たない面がある。

しかし、私たちが実現するものは、一定の幅に収まるのも事実。

なぜかというと、発想を実現する技術がある程度の幅に収まっているから。

 

技術というのは、正解がある。

こうやらないと絶対に動かないという手順がある。

その技術がないと、発想は現実のものにならない。

「頭でっかち」というのは、発想だけで実行力を伴わないことをいう。

 

正解があるというのは、出発点から終着点までの道のりをある程度は予想できるということで、新しいものが入り込みにくい。

閉鎖系であるといえる。

 

小中高で学ぶことに正解があるのは、社会に出てから使うための技術を身につけることが非常に重要だからである。

文字の書き方に創意工夫が許されるのは幼児期までで、小学校に入ると書き順が重要になってくる。

なぜならば、書き順は、文字を正確にある程度均一に書くために必要だから。

書き順がめちゃくちゃになると、「シ」と「ツ」の区別がつかなくなったりする。

そして、PC全盛のこの時代にあっても、書くことが自動化していることは、すべての基本になりうる。

書くことを自動化することで、考えることにリソースを割けるようになるのであって、考えているときに、この漢字はどういう風に書くのかを思い出すことに精一杯であれば、とても考えるほうへはいかない。

 

発想と技術は両輪である。

しかし、どちらが前面に出てくるかは違っていて、

  • 幼児期と大学時代は、発想が前面に出てくる
  • 小中高は技術が前面に出てくる

そういうことになっているのではないかと。

 

ただし、技術の習得そのものが喜びになるのは、小学校4年生くらいまでで、それ以降は、「世界の広がりを支えるのは技術である」と知ることや、「この面白いことを実現するためには、技術が必要である」と体感することが、技術の習得を支えるのだろうと思う。