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Cocco Lifestyle blog

日々の「実験」について書いてます

人は「同じ」にも「違う」にもなれる

バランスとメリハリのある生き方

私はよく、ものすごくはっきりしてるね、と言われますが、それは、自分のやりたいことがはっきりしているからだと思っていました。

 

自分のやりたいことがはっきりしているのは確かですが、それだけではなくて、「人はみんな違う」と思っているからだということに最近気づきました。

 

人は自分とは違う考えをしていると思っているから、他人がどう思っているか確認するし、人が自分と違う考えを持っていてもあまり気にしません。

今ここで必要なことをすり合わせることができたらだいたいのことはそれで大丈夫で、すり合わせであっても、完全一致する必要はありません。

 

「人はみんな違う」と思っていますが「人は同じ」とも思っています。

これがまた、広すぎますが、どういう発達の道筋をたどるかは、だいたいは同じです。

発達のグランドセオリーをベースにモノを見ることができるようになったのが1年ちょっと前。

そうなると、データを取る気が全く失せた=論文を書けなくなって、実質上心理学のキャリアは終わった(どこかに勤めるという意味で。非常勤ですら最新の業績を求められるご時勢なので)という感じですが、生き方としては安定したかもしれません。

 

通常は、家族の同質性や地域の同質性みたいなところで「同じ」と思っていると思います。

しかし、私が育った家族は、家族としての意識がものすごく薄かったと思います。その結果、「ウチの家族は●●である」という概念が育たずに来ました。

両親は、違う地域から移住してきたので、地域の同質性とかもあまり感じないし、ご近所づきあいもその中にどっぷり浸かっていた感じではありません。

 

小学生の頃には「ウチは他の家庭と違う」と思っていて、ウチ「は」違うと思っていたら、なかなか余所の人と話をするのが難しくなります。

しかし、どういう訳か「人はみんな違う」と思う図々しさも持ち合わせていました。

 

 

その一方で、

 

他人は当然自分と同じ考え方をしているでしょ

 

というのを思うともなしに思っている人が結構いるんだなーと感じたりもします。

 

「人は同じである」というのには2つあって、何か違う人がいるとはっきりと感じて、その結果、どこかに境界が引かれる。

A/notAの発生です。

notAがこういう性質を持つと分かるとBという別カテゴリに昇格します。

A/Bになります。

 

それに対して、なんとなく漠然とAというものしか見ていなくて、その結果、世のなかにはAというカテゴリしかないような気分で暮らすということが起こる。

 

しかし、すべての局面において同じということはありえないので、早晩何者かの異質さに出会うことになる。

 

なんとなく漠然と「A」が広がっている空間に生きている人は、この異質さに出会ったときに対処する術を身につけていないんですよね。

 

得体の知れない異質さは、人に不快感を生じさせます。

その結果、異質さに向けて、不要な悪感情を抱いたりする。

この不要な悪感情が、小競り合いや社内政治に走らせたり、ということになっている気がします。

 

グローバリゼーションというのは、結局のところ、異質なところに出会い続けていくということだと思います。

グローバリゼーションに向けての訓練が足りないといった言動をよく耳にしますが、それはつまりは漠然と「A」の空間に生きる生き方から脱却できていないということだと思います。

 

 diversityということばは個人差とか多様性とか訳されます。

みんな違うんだけど、違うからバラバラなのではなくて、違うけど相互理解は可能である。

なので、相互理解がどこで成り立つかを模索する。

そういうのが話し合い。