Cocco Lifestyle blog

日々の「実験」について書いてます。

【リンク】令和元年から二年にかけてのふるさと納税指定自治体

ふるさと納税の指定自治体が発表されていました。

 

令和元年総務省告示第16号

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/jichi_zeisei/czaisei/czaisei_seido/furusato/file/report20190515_01.pdf

 

元のページはこちらです。

www.soumu.go.jp

 

PDFを見ますと、指定期間は2段階になっています。

 

ひとつは、令和元年6月1日から令和二年9月30日まで、

もうひとつは、令和元年6月1日から同年9月30日までです。

 

令和元年6月1日から令和二年9月30日まで指定を受けている自治体が圧倒的に多いです。

 

 

問題は、令和元年6月1日から同年9月30日までの指定を受けている自治体です。

 

結構な数があるので、ふるさと納税を行おうと考えている方は注意が必要です。

 

ハーブティーが増える今日この頃

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今日はLInux MInt 19で書いてます。

Linuxは結構触っていて、平日の夜になぜ3時間も触る時間がある?・・・・って感じだったりします。

 

Windowsからの移行は、Wordの文書が一番のハードルですが、WineでMicrosoft Officeを入れてみようと思ったけどイマイチうまく行かないので、別のやつでできるようにしようと思っています。

Word何気に重いってことにも気づきましたし。

 

まーでも資料作成はそれほど立て込んでいるわけではないので、他のやつを順次使えるようになろうと思って、今回はブログをLinuxで書いてみようの巻です。

 

といっても、最初から入っているやつで、なんちゅーこともなく書いてます。

Firefoxも入っているし、画像編集ソフトもGIMPっていうやつが入っていたので、とりあえず大丈夫だし。

 

GIMPとか、クラシカルなウィンドウがなんかホッとする気が。

古い人間なので。

 

 

 

んで、タイトルですが、仕事終わって3時間PCを触る元気があるので、多分元気なんだと思うのですが、健康オタクを卒業できるかというとそういうわけでもなくて、なんか興味が変わっただけなのかもしれない今日この頃です。

 

ここ半年ばかり、インドやタイのハーブを飲んでいましたが、四十肩五十肩のときに、ビタミンB12とかコエンザイムQ10とかアルファリポ酸とかを買い足してみました。

国内のは高いね!続きはアイハーブで。

何気にマグネシウム関連がいい気がします。

 

それから、四十肩五十肩は胃から来ている気がしたので(ホントかどうかわかりませんが)、レモングラスハーブティーを買ってみました。

 

今好んで飲んでいるのは、

 

 

で、胃と呼吸器系スペシャルな感じです。

これはもう煎じ薬レベルな気がします。

煎じてませんけど。

 

 レモングラスはチンキも作ってます。

フライングで水と混ぜてスプレーにしてみました。

今年はすでに蚊に刺されていて、もしかして蚊よけにならない?と思って。

 

スプレーにはホワイトセージのチンキも入れていて、何気に消臭スペシャルな気もします。

 

チンキもなんかよくわからん間にめっちゃ増えていて、楽天のポイント消化でパロサントのチップ買っちゃったんだけど。

チンキできるかなと思って。

 

ホワイトセージとパロサントは魔除けスペシャルな気が。

また怪しげなことを。

 

 

WindowsとLinuxとサイクロン掃除機

4月ごろからPC環境がえらく変化してまして、無事Linuxのインストールも終わり、いろいろ入れたりしています。

それだけだといいんですが、うっかりMITのスクラッチ(子供むけのプログラミング学習サイト)に手を出してしまって、収拾がつかなくなる寸前でやってます。

 

LinuxはLinux Mint19を入れてみましたが、素人にも優しいですね。

インストールできてしまえば、テキストエディタとかブラウザとか、システム管理とかは一通り揃っているし、Libre Officeもあるので、MicrosoftのOfficeも、一部を除いて閲覧は大丈夫そうな雰囲気。

 

「閲覧」と書いたのは、互換性がイマイチなので、Microsoft Officeで書き溜めたものをLibre Office仕様に変更するのはちょっと骨が折れそうだなーという感じだからです。

だったら、Wineを入れて、Microsoft Officeが入るかどうかを試した方がよさそうな?

 

それと、どうせ書き換えるとかになるんだったら、Markdown使えるようにしていった方が良くない?

って感じです。

 

なので、TyporaとかR, Rstudioとか入れたりしているんですけど、Typora入れた時点でなんか感動しました。

Typoraのサイトに行って、Linuxのページに行ってみたら、無意味綴りに近いテキストがペタっと貼っているだけなわけです。

Windowsユーザーオンリー歴20数年の身からしたら、コマンドプロンプトでさえ荷が重いのに、これどうせえっていうの?って感じだったんですよね。

 

10行くらいのこれ、貼ればいいの?って頭で思っていても、実際の行動につながらないんですが、とりあえず、ターミナルっていうんですか、$マークがついているあの画面に貼り付けたら、なんかガーっと動き始めるではないですか。

 

うわ、なんかインストールしてる・・・・

 

で、Typoraの場合は、なんの支障もなく終わったんですが、ターミナルが動いているのを見て、なんかめっちゃ可愛くなりました。

そうなると、ミントグリーンのロゴでさえ可愛い、みたいな意味不明の状態になって、昔、Mac使いの知人が、Mac好きすぎて、Windowsにでっかいリンゴマークのシールを貼っていたのを思い出しました。

 

 Markdownを触り始めて思ったのが、見出しとか、箇条書きとか、画像入れるとか表入れるとかは、めちゃくちゃ簡単で、Typoraだとプレビュー画面で操作できるので、Googleドキュメントと何も変わらないといえば変わらなかったりします。

 

Markdownのキモは、むしろ、外側というか、フォントの種類をどうするかとか、PDFにする場合には、余白や行間をどうするかとかそこらへんなのかなと思いました。

PDFにせよ、HTMLにせよ、変換先の環境に依存するというか。

 

なので、CSSとかやる必要があるんだなーというのが分かってきましたが、どうせ覚えるんだったら、Rmarkdownとかいっちゃう?しかも、いきなりLinuxで、みたいなことをやったので、結構大変でした。

 

あまりにも試行錯誤しすぎて何がなんだか分からなくなっていますが、コマンドの意味を全く知らずに触り始めたので、

 

ソースリスト?を書き換えてね、みたいなのも、vimっていうのがテキストエディタの名前だっていうのが分かったのが、サイトを5つくらい見た後で、ウチの環境だと違うテキストエディタに関連づけられているので、変えなきゃいけないんだなとか、

 

Rmarkdownを使おうとしたときだったと思いますが、パッケージが入らないのでなんでかなと思ったら、Rのコンパイラというやつをインストールしたらいけたとか、でもその前に、最新版からひとつ落としたやつをインストールしなおしたんだよ!先にコンパイラ見とけばよかったとか、

 

PDF変換しようとしたらLaTex入れてねって出てくるので、とりあえずTexLiveを入れたら、日本語の部分で変換が止まるとか、TexLiveは日本語対応って書いてあるけどなんで?と思ったら、高橋康介さんのサンプルの上の方(Titleなどを指定する部分)をコピペしたらいけたとか、

 

2つか3つのプロセスごとに止まってますね。

 

こういう思考錯誤はものすごく既視感があって、よく考えたら、Windows98くらいのときに一通りやった気がするなーと思ったりします。

あくまで私の場合はWindows98だったってだけですが。

 

Windowsも、バージョンアップしていくなかで、中身をあまり触らせてくれなくなりましたが、Windows98くらいのときは、エクスプローラーから中身を山ほど見て、いらんもんを捨てたりしてました。

そういうことするから、だんだん触らせてくれなくなるんだろうと思うんですが(実際に必要なexe.ファイルまで捨ててしまって動かなくなった人も)、学習の一過程においては、中身をどこまでも確かめてみるってことも必要なんだよなーって思いました。

 

てな感じで、Linuxを触ってみて分かったことが結構あったんですが、

 

ホントに何も知らない状態で触ってみて、初期の言語獲得においては、膨大なインプットの中から差分を割り出すみたいな統計学習をやってるよねっていうのを改めて感じたりしました。

 

 

それから、やっとタイトルなんですが、Windowsって結局何者なの?って思いました。

 

ターミナルでコマンド打ち込んで結果が返ってくるみたいなプロセスの方が、コンピュータの本質には近い気がしますし、実はそれだけで全然いいんですよね。

 

けど、一部の慣れた人とか適性のある人じゃないと、ホントにターミナルみたいなテキストだけの画面で処理するっていうのは辛くて、Windowsみたいにデスクトップ画面で処理できるっていうのはすごくありがたい。

 

その恩恵を20数年も受けて来てこんなことを言うのはどうなのかなっていうのも思うんですけど、

 

デスクトップ画面での処理が当たり前になったときに、なんか余計なものがいっぱいくっついて、それが邪魔していることが沢山あったりしないのかなっていうのを思いました。

 

何かをインストールするときに、ターミナルからする場合は、インストールする手順プラス文字列の表示だけでいいわけですが、

 

GUIっていうんですか、私たちの多くが慣れ親しんだ、ウィンドウが出てきて、アイコンやボタンをクリックして、次のプロセスに進んだら、また違うウィンドウが出てきて、みたいなのって、ウィンドウを表示するとか、ボタンをクリックしたら次の処理に行くとか、そういう処理のためのプログラムも含まれている訳なんですよね。

 

それって、結構負荷が高かったりしないのかな?

って感じたりしました。

 

しかも、今回BIOSを触って感じましたが、デスクトップに出てこないベースになるいろんなものが、ここ数年で切り替わってきているようで、そこらへんのもたつき?とか、そういうものが蓄積されていそうだなって気がしました。

 

サイクロン掃除機はすでに私たちにはおなじみのものになっていますが、サイクロン掃除機の原理自体は、紙パック式と同じ時代に考案されたものだそうです。

そして、サイクロン掃除機は、ノズルの吸い取りと、サイクロンの2つにモーターの力を割かなければならないので、実は、ゴミを吸い取る力自体は紙パック式の方が上、という話があります。

 

だからサイクロン式の掃除機が劣っているかというと、そういう訳ではなくて、たとえば、ゴミを溜める場所の密閉具合が適切であれば、吸引力が上がるとかはありそうな気がします。

 

しかし、そうなると、吸い取りノズルとか、吸い取り用のモーター以外の部分での開発が余計にかかるわけで(紙パック式の場合は、紙パックの密閉性というか防塵機能が関係しているけれども、それは本体以外の開発でいける気がする)、本質的には余計な部分に力を割いているような気がしなくもないです。

 

Windowsの場合も、デスクトップ画面の使いやすさはもちろんありがたいですが、使いやすさを追求するあまり、PCの処理という本質と何かがバッティングしていて、その結果、ハードもメモリも巨大化の一途を辿っている気がするんですが、どうなんでしょうか。

 

 

 個人的な心情として、Windows10の次がある気がしない・・・・ので、Chromebookがうんたらとか、Linux触ってみようとかなっているんですが、

 

Windows11っていつ出るのかな、って思ったら、10で終わりで、違う名前のOSが開発途上にあるという話が引っ掛かってきて感慨深かったです。

 

 

2019年に『モラトリアム人間の時代』を読んで思ったこと

以前から読みたかった小此木啓吾著『モラトリアム人間の時代』を読みました。

 

 

 

 

 

現在こちらを読んでいる最中です。

 

 

まだ途中なのですが、内容を強引にまとめつつ、思ったことをちょっと書いてみようかなと思います。

 

モラトリアム人間の時代』はかなり有名な本です。

単なる流行りものかなと思っていたら、現在の状況にも通じる分析で、非常に面白かったです。

 

ただ、1970年代、1980年代と現在とは、さまざまな価値観が変わっているのも確かで、読む人によっては怒ってしまうかもしれない記述もあるなーと感じます。

40年前の著述なので、著者に文句を言うのは筋違いだと思いますが。

 

モラトリアムというのは、もともとはエリクソンが青年期の特徴として挙げたものです。

モラトリアムの本来的な意味は、有事の支払い猶予で、それが心理社会的な意味合いに用いられたということですね。

 

青年期におけるモラトリアムは、いつか社会に出ることを想定しているわけですが、モラトリアム人間というのは、青年期に限定されず、社会的性格化したものであるといえます。

 

社会的性格というのは、エーリッヒ・フロムがファシズムが人々に流布した現象について述べる際に使った概念で、社会で暮らす人々の心の中に共通する経験や欲求に根差した無意識に潜む人間のあり方だそうです。

 

モラトリアムが社会的性格化したというのは、青年期に限定されずに多くの世代や属性に見られるということです。

 

ただし、モラトリアム人間といった時点で、青年期におけるモラトリアム=社会における責任を免除されて「実験」にいそしむといった面よりは、アイデンティティ拡散的な側面が強くなるといえます。

 

アイデンティティ拡散というのは、社会に出る=自分が何者であるかを決めるという側面を延々先延ばしにするということです。

マーシャのアイデンティティ・ステイタスでいうと、アイデンティティ拡散・危機後(すべてのものは可能であるし、可能なままにしておかなければならない)に該当する気がします。

 

なぜ、アイデンティティ拡散的なモラトリアムが社会的性格化したかというと、社会の変化が速くなって、社会に出たときの自己定義でずっと行けるわけではなくなったことが大きいです。

 

そして、青年期の人たちは、社会の変化に敏感であって、そういった人たちの性質が社会に出ても歓迎されるような風潮にあったからといえます。

 

反面、なぜ変化に敏感で「実験」を繰り返せるかというと、責任を免除されて無責任に物を言えるから、社会からはお客さん扱いしてもらえるから、と言えます。

そして、社会に出ても当事者意識がなくお客さん気分でずっといるのがモラトリアム人間だという話です。

 

 

モラトリアム人間と会社人間とは、まったく別物であるかのように見えますが、実は、会社人間の中にもモラトリアム人間的な性質が見え隠れすることも書著の中で指摘されています。

 

会社の中で出世しようとするならば、変わりゆく会社の流れに適応する必要があります。

到来するはずの未来を「待つ」姿勢が、実は会社人間に必要であって、未来を待つ姿勢というのがモラトリアム人間の性質であるというのですね。

 

という内容が『モラトリアム人間の時代』だったのですが、

 

モラトリアム人間を考える』の冒頭を読んでいて、さらに分かったことがありました。

 

モラトリアム人間は社会が豊かになり、かつ変化が速くなった時代の産物であるといえますが、さらに見てみると、生活環境の人工化が影響していると言えます。

 

フロイトの時代には、自然環境に適応することが自我の成熟の課題でした(=現実原則)。

しかしながら、生活環境が人工化していくと、寒さに耐えるとか、空腹に耐えるとか、

そういう機会は減ります。

それによって現実原則感覚の弱化が引き起こされます。

 

現実原則感覚の弱化によって、私たちは、「願えば叶う」万能感覚を捨てずに済むようになりました。

それが、モラトリアムという心理感覚が社会性格化した一つのおおきな理由ではないかということです。

 

さらにいうと、人為的・社会的なルール=執行原則@マルクーゼでさえも、現実原則が絶対的でなくなったことによって、相対化されることになりました。

 

人為的に決められたルールなのだから、なぜ従わねばならないのか?という話です。

 

現実原則の相対化および執行原則の威光失墜によって起こったことの中に、ジェンダー意識の相対化が挙げられていました。

 

現実原則及び執行原則が強固であった時代には、現実原則と同一視されるような執行原則がありました。

その中にジェンダーというよりは男女の明確な区別といった方がいいと思いますが、そういったものも、現実原則と同一視されるレベルの執行原則に入っていたということですね。

 

著書の中ではこういう書き方はされていませんが、昔は「冬は寒いから耐えられるようにならなければならない」というレベルで「男と女には明確な区別があるから耐えなければならない」というルールが扱われていたということですね。

 

それが、「男女の区別は人為的に決められたものである」という認識が広がり始めたとうことですね。

 

ジェンダー関連の執行原則の失墜によって、摂食障害が引き起こされていると解釈できる箇所がありますが(食欲という現実原則を人為的に操作可能であるという観念も関与)、モラトリアム人間時代以後の人間としては、むしろ、ジェンダーに関連する違和感が明確に意識化される前の身体表現症的なものとして摂食障害を位置付けた方が、納得できる気がするのですが、どうなんでしょうか。

 

身体の不調としてしか表現できなかった時代から40年経って、現在は、ジェンダーの区分けなどに関して言語化可能な時代に入りつつあります。

言語化することによる抵抗が凄まじいですが、そのうち慣れていくと、摂食障害的な表現は減っていったりするのかなーと思ったりします。本当か分かりませんが。

 

 

それから、現時点で80歳前後の人たちのジェンダーに関連する言動に、ものすごく違和感を覚えることが多かったのですが、それは、おそらくジェンダーの区分=生物学的に動かせないもの、くらいの強固な刷り込みがあったからなんだというのがようやく納得できました。

 

情報が蓄積されてきたらカテゴリ境界があいまいになってくるというのは、あちこちの分野で起こっていることだと思います。

生物学的な区分についてもそうだし、発達障害についてもASDに限らずスペクトラム的に見るのが通例になっていると思います。

なので、ジェンダーに関しても境界があいまいになってくるのは然るべき動向であるというのが私個人の感覚なのですが、 そういう感覚は、モラトリアムの社会性格化以前と以後で受け入れられるか否かが決まってくるんだろうなと感じました。

 

 

 

現在も引き続きモラトリアム人間の時代が続いていると思いますが、著書の時代とはかなり様相が変わっているのかなという気がします。

 

一つは、2冊が書かれた1970年代~1980年代前半は、経済に翳りが見られるとはいえ、まだ豊かだった時代で、社会でモラトリアム人間を許容できる余地があったと思います。

 

現在は、モラトリアム人間を許容できる余裕がどんどんなくなっていって(青年期のモラトリアムはすでに消滅していると思うことがしばしば)、分かりやすくモラトリアム人間をやっている人を排除しようとする動きが顕在化していると思われます(ただし、排除しようとする側もモラトリアム人間であると思われる)。

 

また、モラトリアム人間の核と言える現実原則感覚の弱化と執行原則の失墜は、新たな形で執行原則を作る動きになっているのではないかと思います。

そのひとつがコンプライアスの感覚です。

コンプライアンスというのは、お互いに気分よく暮らすための決まり事という気がするんですが、平和感覚というのもモラトリアム人間の鍵であるという話なので、そこらへんは符合する気がします。

 

 

ちなみに、スピ系で、インディゴチルドレンとかクリスタルチルドレンとか流行ったことがありましたが、これらも、モラトリアム人間の下位カテゴリとみなすこともできるんじゃないかなという気がしますし、昨年取りざたされたスピ起業やネット起業における動向も、モラトリアム人間のものとして捉えることが可能だろうと思います。

 

 

 

 

 

【リンク】◆主なプラスチックの特性と用途◆

 

原材料を混ぜてスプレーやらなんやら作るのが好きです。

 

空容器を買う時に迷うのが容器の素材で、ガラス容器であればだいたいは大丈夫なんですが、プラスチックの場合は、モノによってはNGだったりします。

 

プラスチックの素材によって、アルコールはOKとかNGとかあるみたいなんですが、いつも探すのが大変で。

 

と思っていたら、一覧表になっているページを見つけたのでリンクしておこうかなと。

 

www.jpif.gr.jp

 

日本プラスチック工業連盟というところが出しています。

 

確認しておきたいのは赤字になっている部分で、

 

ポリエチレン(PE)、PP(ポリプロピレン)、塩化ビニル樹脂/ポリ塩化ビニル(PVC)、ポリエチレンテレフタレート/PET樹脂(PET)は、酸、アルカリ、アルコール、食用油に対して「良」となっています。

ただし、PETは強アルカリを除くとなっています。

 

気を付けたいのがPSですかね。

酸とアルカリは大丈夫そうですが、アルコールに対しては「長時間入れておくと内容物の味が変わる」、食用油に対しては「柑橘類に含まれるテンペル油や、エゴマ油等の一部の油脂に侵されることがある」とのことです。

 

PSというのはポリスチレンですが、ご飯を作るときにも影響してきそうな。

長いことおかずを入れておくと双方劣化する可能性がありそうですよね。

 

と思って、ダイソーのビニール袋(よくスーパーでお肉のパックを入れるときに貰うような、半透明のカシャカシャいうやつ)とストックバッグ(ジップロックみたいなやつ)の素材を見てみましたが、

 

どちらもポリエチレン(PE)でした。

 

PSのところで書かれている柑橘系のテンペル油って、皮に含まれる精油類(モノテルペン。リモネンとか)ってことなんですかね。

精油はガラス容器でのが無難な気はしますが。

 

いずれにせよ、プラスチック容器を買うときは、素材を見て買うのがいい気がしますね。

アルコールや油分を含まない化粧水類でなければ、素材が書かれていないものはやめておいたほうがよさそうな。

 

 

恋愛における吊り橋効果ならぬ複雑性PTSD効果みたいなのがあるんじゃないかと思った件

久しぶりに複雑性PTSD関連の話です。

以下、私個人にしか当てはまらないことかもしれませんが、書いてみたいと思います。

 

GWの中盤の天気が悪すぎて、冬物を洗うとかクリーニングに出すとかができずにあまりにも暇だったので、これまでの恋愛感情の棚卸、といっても棚卸をするほどの数もないんですが、とりあえずやってみました。

 

複雑性PTSDとか発達性トラウマとか、本を読んでの自己診断なので、実際どうなのかは分かりませんが、

 

少なくとも、そういう関連の現象に自分の問題として興味を持つ時点で、いろいろあったわけだし、自分自身の他人を見る目に自信が持てないっていうところがあったりします。

 

 仕事柄、客観的な観察とか評価はそれ相応にできますが、プライベートになるとなんともなー・・・って感じなんですよね。

 

なんでこの人好きになったん!みたいな感じのことを後で思ったりすることも多々あって、思うこと自体は良くあることだと思うのでまあいいとして、客観的な目で見たときに、この人普通にヤバいでしょっていう人を結構好きになっていたりします。

ホンマに付き合うとこまで行かなくてよかったわーみたいな感じ。

 

で、なんでこの人好きになったの?みたいなことを過去にさかのぼってみたときに気づいたんですが、

 

たとえば、

 

この人に会うとドキドキして息苦しい

 

という時ってあるじゃないですか。

 

 

そのときに、一つの解釈として「この人好きかも」っていうのが出てきたりします。

 

 

これって、吊り橋効果みたいな感じですよね。

 

吊り橋効果というのは、男女二人で吊り橋みたいに足元がぐらぐらしていてちょっと怖いところでキャー!みたいなのをやっていると、なんか知らんけど恋愛感情を抱きやすいみたいな感じの話です。

 

吊り橋効果のキモは、キャー怖いみたいなときの心拍数が上がるとか瞳孔が開くとかの生理現象と恋愛における生理現象とが似ているからという点です。

吊り橋でなくてもスポーツなんかでも同じようなことが起こったりします。

ホンマにそうなの?っていう話もありますが。

 

 

で、「この人に会うとドキドキして息苦しい」っていうのが、普通に吊り橋効果だったらいいんですが、

 

これって、複雑性PTSDにおけるトラウマ反応みたいなのでも起きたりしないの?

 

とか、「この人」っていうのが、たとえば、パワハラ上司だったとしたら、恋愛感情ではなくて、パニック発作って言いません?とか。

 

 

複雑性PTSD(自己診断)においてマズいと思う点が、認知や感情の変容を伴う点ですね。

 

なので、パワハラしてくる上司に対するパニック発作的な反応に関して「この人好き」と解釈する可能性は否定できないなと。

 

それから、通常の吊り橋効果と違うと感じる点は、生理現象も「この人好き」という間違った解釈も長引くことかなと思ったりします。

 

 

どういうことかというと、

 

通常の吊り橋効果、とりあえず、グループでスポーツをしたときに、「この人いいな」と思ったときのことを考えてみます。

「この人いいな」と思ったときに、相手と話をする機会があって、さらに、次にも会おうということになったとしたら、その相手とは続く関係になるかもしれません。

けど、話とするとか連絡先を交換するとか、実際に会う機会がなければ、スポーツ時の心拍数の変化とか発汗とかはすぐに収まって、それに伴い、「この人いいな」という淡い感情も消えてしまうのではないかと。

 

それが多分普通の状態なんですよね。

 

吊り橋効果とはまたちょっと違った現象になりますが、解離性障害の本なんか見ますと、解離という心理現象自体は、普通に起こるもので、たとえば、スポーツ観戦で興奮しているときにも起こったりするそうです。

で、観戦が終わって少しすると、解離の状態から抜け出して通常モードに戻ります。

 

解離性障害の場合、なぜ「障害」という話になるのかというと、解離の状態が長く続くとか、ある状況において頻発するとかで、日常生活や社会生活に支障をきたすとか、身体に非可逆的な変化をもたらすとか、そういうことが起こるからじゃないかと思うんですよね。

 

 

複雑性PTSDと吊り橋効果の話に戻りますが、

 

複雑性PTSDみたいな状態にある場合、「この人と会うとドキドキして息苦しい」というのは、ちょっとヤバい状態であると思われます。

「この人」との関係がハラスメントめいたものである可能性もありますし、「この人」が引き金になって、トラウマ反応が引き出されている可能性もあるんじゃないかと思います。

 

実際にハラスメント的な人間関係にハマるというのもヤバいですが、トラウマ反応が引き出されるような関係にハマるのもヤバいと感じます。

トラウマ反応というのは、過去に縛られることと同義で、本来的にはその人と新しい関係を築くことができるはずなのが、対処法が限られてくる、しかも、あまり健全ではない方向に、ってことになりかねないです。

 

 

 それから、認知と感情の変容を伴う場合、自分の心の中に現実とは全く違う物語を構築してしまうこともあります。

その物語から醒めたときに、うわぁー・・・って思うこともありますが、自分だけの物語だけで突き進んで、相手との関係を壊してしまったりする恐れもありますので、結構怖いですよね。

 

 

っていうのをやっていると、半年くらいは余裕で過ぎていきます。

ちょっと話をしただけの人に関して、普通だった半日くらいで忘れ去っていくことを半年引きずるとか、

どう考えてもヤバい相手でさっさと逃げた方がいいのに、「好きかもしれない」と思っている間にボロボロになるとか、

そういう感じで長引きます。

 

 

個人的には、複雑性PTSDベースで人間関係を構築するのってかなり怖いので、できれば避けたいわけですが(といっても、子ども時代からの密接な人間関係において起こることなので、避けられるものでもないんですが)、

 

できそうな対処方法としては、

 

  • 「この人好きかも」と思ったときに、複雑性PTSDがらみの反応ではないかと自分に問いかけてみる。
  • 現実の関係性ベースで進める。認知と感情の変容が起こったときに、実際上は一言二言世間話をしただけなのにも関わらず、何十年も一緒にいてなんでも分かるような気分になったりすることがあります(これは、恋愛感情みたいなことでなくても起こります)。そういうときには、実際に接触した数を数えてみるとか、相手の何を知っているのかを客観的に見るとか、そういう必要がある気がします。
  • 現実の活動で楽しいことを増やす。複雑性PTSDみたいな状態は、自分の中に自分のHPを削る装置を持っているようなもので、何もしなくてもHPがどんどん減っていく状態だったりすると感じています。実際に活動できるHPがないので、頭の中の妄想がどんどん膨らんでいくことになったりするわけですが、妄想に費やすHPもバカにならないので、そのHPを、現実の楽しいことに費やすように生活を変えていくということも大事だなと感じます。楽しいことを考える元気さえないわってときは、とにかく朝起きること食べること、夜寝ることに注力するというのもありだろうと思います(朝起きて云々というのは、高橋和巳さんの『消えたい』に載っていたことでもありますが)。

 

かなと思ったりします。

 

 

 

 

 

 

【リンク】第7回:アップグレードか買い換えか? いつ?どうやって?

Windows7からWindows10への乗り換え問題の記事が載っていたんですが、

 

ヤフコメがかなり有益と思いまして、元記事のリンクとヤフコメのリンクを貼り付けておきたいと思います。

 

と書きつつ、説明が必要だったので、ヤフコメのリンクはかなり下の方になっていますが。

 

 

元記事はこちらです。

 

internet.watch.impress.co.jp

 

1年足らずでWindows7のサポート終了で、次はどうしようかな、Windows路線だと10に切り替えることになるわけですが、この路線だと選択肢としては、

 

  • 新品のWindows10に買い替える
  • 今持っているWindows7のマシンに10を入れる

 

の2種類くらいしかありません。

といっても、今のWin7に10を入れるなら、アップグレードかクリーンインストールかの選択肢があるんじゃないかと思いますが。

 

「この路線」と書いたのは、脱Windowsという選択肢もあるわけで、ちょっと横道に逸れますが、東急ハンズなんかは脱Windowsという記事を以前読みました。

 

office-kabu.jp

この路線はシステムの切り替えなんかも含んでいて、1年2年でどうこうなる問題ではなさそうなので、現時点でどっぷりWin7にはまっていてこれからどうしようか考える場合は、全然間に合わないと思います。

 

ということで、Win7が終わるからさあどうしようって場合は、Win10に替えるしかないかもしれません。

 

Win10一応動いてますし(とかすごい変なこと書いてますけど)いいんですけど、この記事を読んで「えっ!」と思ったのが、スペック要件なんですね。

 

システム要件の部分だけ引用します。

対象パソコンがWindows 10のシステム要件を満たしているか?
  1GHz以上のCPU
  1GB(32bit版)または2GB(64bit版)のメモリ
  16GB(32bit版)または32GB(64bit版)のストレージ空き容量
  DirectX9以上のグラフィックス
  800×600ピクセル以上のディスプレイ

アップグレードか買い換えか? いつ?どうやって? - INTERNET Watch

 

これ、最低条件なので、この要件を満たしているからWin10にアップグレードしようとかいうのは、無理なのでやめた方がいいんじゃないかと。

っていうところは、ちゃんと記事に書いておいた方がいいような?ヤフコメにもありましたが。

 

私のWin10Home、メモリの使用状況を見ますと、

 

  • Word 1枚
  • ブラウザ 2枚

 

くらいで、普通に4GBとか行ってます。

 

1年ちょっと前にWin10に買い替えるにあたりいろいろ調べたところ、

 

  • SSD256GB
  • メモリ8GB

 

くらい積んでいないとちょっとしんどそうだと感じたんですが、そんなに間違っていなかったなという感じです。

 

ちなみに、今使っているのは、それこそWord、パワポとブラウザくらいで、その代わりウィンドウを沢山沢山開けているっていう感じの使い方です。

 

そんなに重いアプリケーションソフトも使っていないんですが、それでもメモリは8GB積んでおいてよかったなーという感じです。

 

ということで、やっとヤフコメのリンクです。

 

headlines.yahoo.co.jp 

 みなさん思っていることは一緒みたいですが、それぞれの環境での事情とかトラブルが載っているので、かなり参考になるんじゃないかと思います。

 

 

 

ちなみに、

 

  • Corei5
  • メモリ8~16GB
  • SSD256GB

 

の価格コム検索結果です。

 

kakaku.com

値段的にはOfficeなしで7万円からですかね。

海外モデルだと7~10万円でかなりの選択肢がありますが、国産モデルは最低ラインが9万円台からです。

 

 

Win8.1の延長サポート終了が切れるのが2023年1月で、Win10のサポート終了と2年しか違わないので、

 

(参考)

ご存じですか? OS にはサポート期限があります! - Microsoft atLife

 

中古の8.1でしのぐという手もありますかね。

それぞれの使用環境によってできる場合とできない場合とがあるんじゃないかと思いますが。

 

中古の8.1、割といいスペックのですが、買ってみたらそこそこ使えています。

ただ、Win7とはスタート画面がえら違いなので、慣れる必要はあります。

7と8.1と10とスタート画面が全部違うので、どうにかならんのかな。