Cocco Lifestyle blog

日々の「実験」について書いてます。

賢者ケイロンにリスペクトしつつ次のステップへ & ルノルマンカード占いの話

前の前くらいに鏡リュウジさんの話を書いていて思い出したんですが、20年ほど前に読んだ『魂の西洋占星術』で一番印象に残ったのが、キロンの話でした。

 

キロンは1977年に発見された新しい惑星で、1991年に『魂の西洋占星術』が発行されたころは、まだあまり研究が進んでいませんでしたが、ケンタウルスのケイロンの象意として、「傷と叡智」的な内容が付与されていたと思います。

 

ケイロンはギリシャ神話に出てくる半神半馬の賢者です。

 

ケイローン - Wikipedia

 

この神話の姿は、今にして思うとPTSDやん!と思うわけなんですが、1977年といえば、ベトナム戦争が終わったばかりの頃です。

PTSDという診断名は、ベトナム戦争の帰還兵で、身体には深い傷を負っていなくても、心がズタズタになった人の救済のために精神科医たちが働きかけて申請されたものです。

トラウマという心理現象自体は、20世紀の初頭から分かっていましたし、第一次世界大戦あるいは第二次世界大戦の頃にも、「戦争神経症」として知られていました。

PTSD」という診断名がつけられるようになってから、変化したことがあるだろうと推察されますので、西洋占星術の「星は発見されてからその意味を発揮する」的なセオリーは、メジャーな天体でなくても適用できるものなんだよなあと思ったりします。

 

で、私の場合、天体キロンと賢者ケイロンの話があまりに印象深かったので、自分と重ね合わせて生きて生きたところがあるんですが、そろそろ卒業してもいいのかなという気がしていたりします。

 

賢者ケイロンは、抗争に巻き込まれて毒矢に当たり、苦しみの中で生きていきますが、あまりの苦しみに耐えられなくなり、不死身の性質をプロメテウスに譲り、死ぬことになりました。

PTSDというのは、ある意味、生きることも死ぬこともできない苦しみの中にいるという側面があって、賢者ケイロンの姿と被るなーとおもったりするわけですが、生きる方へ移動するか、死へ移動するかで、苦しみから解放されるというところはあるのかなと思います。

 

私の場合は、生きることもできない死ぬこともできない状態は脱して、今も生きていますので、生へ移動できたのかなという気がしていて、そうなるとケイロンの神話は卒業でいいのかなという感じです。

 

ただ、私の場合は、神話とかイマジネーションとかを必要としているところがあるらしくて、じゃあ、ルノルマンカード占いが本格的にできるね、とか思ったりします。

結局占いに行くんか、っていうのが何とも言えないところなんですが。

 

個人的には、ルノルマンカード占いや紫微斗数は、社会的な側面のイメージを広げたり掘り下げたりするのに適している気がしています。

マルセイユタロットもそういうところがあるなーと思いますが。

個人的には、ライダーウェイト的な、神秘主義的なシンボルが全面に出ているものよりは、現実との対応がしやすいものの方が向いているかもしれないなーと思ったりします。

 

ルノルマンに関しては、英語の本をぼつぼつと読んでいる最中ですが、

 

 

The Complete Lenormand Oracle Handbook: Reading the Language and Symbols of the Cards (English Edition)

The Complete Lenormand Oracle Handbook: Reading the Language and Symbols of the Cards (English Edition)

 

 

この本は英語なので、理解度6割程度でゆっくり読んでいる感じですが、個人的には結構好きですね。

 

本の最初の方に書いてありましたが、ルノルマンはレキシコン(語彙体系)だそうです。

レキシコンってどういうことかというと、たとえば、2枚のカードを引いたときに、左側が名詞で右側が形容詞的な感じで解釈していくということです。

 

 

 たとえばこんな感じ。

人間関係ついて2枚引きをしてみました。

 

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左が25指輪、右が5樹です。

上掲本のクイックリファレンスによると、25指輪は契約、協定など約束事などを示します。5樹は、健康、環境、ルーツなどを示します。どっしりした土台という感じですかね。

どちらも良い意味のカードなので、盤石で固い関係を築けそうだなという感じですね。ただ、5樹はゆっくりと進むイメージなので、焦らずに関係を進めていくのがよさそうです。

 

もうひとつは、

 

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右が15熊、左が13子どもです。

15熊は、力、保護、祖母、13子どもは子ども、無垢、認識の甘さ、自発性などを示します。

これ見てちょっと吹き出しましたが、こちらのカードに関係する人が、子どもの熊そのまんまなんですよね。好奇心旺盛なのに世話好き的な感じ。

というのでウケて、最初はそれで終わっていたんですが、このカードの関係が、本当に進まないんだわ。

熊はどっしり構えていて、事がなかなか進まないっていう意味合いもあるそうで、途中であーあーあーって思いましたね。

ただ、進まないから何か不都合があるかといえば、別にそれもないんですよね。

熊も子どもも、意味合い的には良いので、今の状態を楽しむ手もあるんだよなーというので、落ち着いています。

 

私の場合、すぐに動くのが好きなところがありますが、この2つの関係はそういうところを求めるのではなくて、ゆっくり進んでいくのがよさそうだなと感じました。

 

みたいな感じです。

そもそも、単語の意味っていろんな広がりがあるので、基本の意味を押さえつつ、いろんな意味を枝の方に茂らせていくのがいい感じかなと。

 

 

ちなみに、熊のカードで面白い事例をアップしている方がおられました。

 

手紙と熊 – ルノルマン占い

 

手紙と熊の意味合いそのまんまですねー。

 

 

ということで、グランタブローとか9枚引きとかできなくても、全然楽しめます。

なんならクイックリファレンスみたいなのでも全然楽しめます。

カードの意味をもっと広げて深めつつ、象徴カードとか使えるようになるともっといいんだと思いますが。

 

 

せっかくなので、鏡リュウジさんのルノルマン本(カード付き)も買ってみました。

  

秘密のルノルマン・オラクル

秘密のルノルマン・オラクル

  • 作者:鏡リュウジ
  • 出版社/メーカー: 夜間飛行
  • 発売日: 2014/08/10
  • メディア: 単行本
 

 

この本は、カードの意味が日本語で詳しく書かれているのと、1枚引きからグランタブローまで占いの例が載っているのがいいですね。

Caitlin Matthewsは、まだカードの引き方まで進んでいないので、3枚引き、9枚引き、グランタブローのイメージができて良かったかなと思います。

 

カードの意味に関しては、自分の内部で「絵」として動くとかなりいいのかなと思います。

が、ルノルマンカード自体に触れていない場合は入り口が分からなくて右往左往する場合があるのかも。

なので、どうやって触れていくのかについての導入があった方がカードの意味がイメージしやすいのかなという気がしました。

 

上に挙げたCaitlin Matthewsのハンドブックは、ルノルマンカードのご自身の印象から、タロットカードとの違い、日常でどうやって使っていくか、たとえばこういうカードが出たんだけど、どういう風に解釈しました的なことが最初の方に載っていて、カードを引くイメージができたところでカードの意味に入っていったので、それはとてもよかったですね。

 

ルノルマンカード自体に触れたことがない方は、まずは、ネットの1枚引きで慣れていくとか(鏡リュウジさん監修のやつが落ちてました)、いろんな方が書いているブログを読むとかから始めるのがいいかなという気がします。

 

ちなみに、熊と手紙の例でリンクさせていただいた方の記事は、イメージがしやすくていい気がします。

 

ルノルマン占い – タロットより簡単、当たる!ヨーロッパ秘伝のカード占い

 

この方は、スタインバックさんという方に習っておられたようで、スタインバックさんのことを調べてみると、この本を書いた方ではないかと。

 

The Secrets of the Lenormand Oracle (English Edition)

The Secrets of the Lenormand Oracle (English Edition)

 

 

ノーレイアウトという手法を開発(たぶん)された方のようです。

グランタブロー的なやつとはちょっとシステム違いっぽいのですが、面白そうですね。

 

ルノルマンは英語の体系的な本が出てきだしたのがここ最近ぽいので、グランタブローみたいな一本軸がありつつ、しかしながら、まだ点と点が結び付いていない感じがしました。

膨大な研究がなされていて、一般にも流布してしまっているタロット占いとは、ここが違う点で、本を出している人によって、カードの意味が違ってしまっているように見えるたりするのは、まだまだつながっていない部分があるからではないかと思いました。

 

ただ、ルノルマンは、すごく勉強しないと使えないという感じにもなっていないと感じるので、カードを入手して、とりあえず触ってみるのもありなのかと。

カードの意味は見た方がいいですが。

たとえば、塔のカードは、タロットの塔と全然違う意味合いだったりします。

タロットの記憶を引きずりつつルノルマンを触ってしまうと、たぶんえらいことになる気がしますので、そこは頭を切り分けるのがよろしいかと。

 

ちなみに、上の画像は、Mystical Lenormandというカードです。

 

 

Mystical Lenormand

Mystical Lenormand

 

 

あれ、こんなに高かったっけ?と思いましたが、

 

 こちらでした。解説書がドイツ語です。カードがあれば良いのでこちらにしてみました。

 

 ニチユーが出している、日本語解説書付きのやつもあります。

ミスティカル・ルノルマン   日本語解説紙付
 

 

ルノルマンカード、いろいろ出ているので、ネットをひたすら見て、最終的にこれに決めましたが、個人的には、画像を見ていたときよりも、実物の方が好き。

 

 

カードってなぜか増殖するので(いや、自分で買っているんですけど)、Caitlin Matthewsの英語の解説書付きのやつも買ったんですが、

 

The Enchanted Lenormand Oracle: 39 Magical Cards to Reveal Your True Self and Your Destiny

The Enchanted Lenormand Oracle: 39 Magical Cards to Reveal Your True Self and Your Destiny

  • 作者:Caitlin Matthews
  • 出版社/メーカー: Watkins Publishing
  • 発売日: 2018/04/17
  • メディア: カード
 

 

これはとても美しいカードだと感じます。

鏡リュウジさんのルノルマン本によると、絵を描いたヴァージニア・リーという方は、映画「ロード・オブ・ザ・リング」の映像のコンセプト画を描いたんだとか。

Mystical Lenormandの使い勝手が良すぎて、まだ全然使えてないんですけど。

 

 

呉茱萸湯の効能に習慣性頭痛と書いてあってちょっと感動

最近むくみが気になるので、水毒について調べている間に、頭痛に効く漢方薬の記事を見つけました。

 

で、調べている間に、五苓散が水毒にもよく頭痛にも効くらしいのと、呉茱萸湯も頭痛によいらしいし、この2つを併用しているお医者さんもいるらしきことが分かってきました。

 

ツムラの呉茱萸

https://www.tsumura.co.jp/kampo/list/detail/031.html

 

漢方頻用解説  呉茱萸湯2

http://medical.radionikkei.jp/tsumura/final/pdf/110914.pdf

ここに書かれている、呉茱萸湯に合う症状が自分にぴったりすぎてすごすぎる。

 

五苓散は天候が悪くなる前の頭痛にいいらしい話と呉茱萸湯は習慣性頭痛に効くらしい話

https://aih-net.com/kanpo/medical/thistime/zutsuu.html

 

茱萸湯は習慣性頭痛にいいらしいのと、こんな感じらしいです。

  1. 茱萸湯の頭痛
    胃に水分が停滞しかつ冷えている状態があり、その停滞した水分(寒飲かんいん)が上に衝き上げて頭痛がする。寒飲を吐くと頭痛の原因物質が減るので症状が軽減する。

     

 

茱萸湯と五苓散の併用に関する記事

http://medical.radionikkei.jp/tsumura/final/pdf/170628.pdf

 

五苓散は、近所のドラッグストアに「アルピタン」という名前で置いてあったので、試しに飲んでみたところ、1時間くらいでトイレが近くなって、しかも、いつもはぽってり歯型がついている舌がすっきり二回りくらい小さくなっていたので、うわー水毒やーと思いました。

ただ、1袋飲むと、熱が頭に上ってくる感じがしたので、半分くらいに減らして様子見ですが、身体が軽くなる感じがします。

 

茱萸湯の方もエキス顆粒を入手してみて飲んでみたところ、こちらも即効でした。

苦いという話だったので、少しなめてみたところ、これくらいなら全然平気~という感じだったので、1袋飲んでみましたが、こちらは、背中が痛いのがかなり軽くなりました。

 

 

「ホロスコープの月が欠損を表す」という見方が理解できた気がする

記事の最初に言い訳など書いてしまいますが、ここのところやることがてんこ盛りで、でも記事を書きたくなってしまうので、ブログを非公開にしていたりしました。

 

その間に訪問された方がいらっしゃいましたら申し訳ありません。

 

てんこ盛りのやることは一向になくなりませんが、書きたい欲求に打ち克つことができず、結局書いています。

 

 

ここのところ、社会面でのてんこ盛りの他に、内面でも急転直下なことになっていまして、

 

数年来、毒親問題にがっつり取り組んできました。

2,3年前に「複雑性PTSD」という状態のことを知り、それを足掛かりに、身体面のケアが進んだことでだいぶ楽になったわけですが、年を越したあたりから、

 

あれ、私もしかして愛されてきた?

 

というのを感じるようになりました。

 

肉親については、愛を知らない人だというのも感じますので(そう感じるのは私の修行不足であることも否めませんが)、毒親問題と矛盾するわけではなくて、外に出たときに、愛を注いでくれる人が沢山いたことに気づきました。

 

 

で、それを感じたことで、なんか満足というか、次に行けるなー、毒親問題、そんなに考えなくてもよくなるわ、という感じになりそうです。

 

ま、私の場合、親と物理的・心理的距離を置くことができているというのが大きいのでは確かなんですが。

 

 

親と物理的・心理的距離を置いても尚残る、私自身の心性や生き様があるんだなというのも感じています。

 

 愛に関する欠損というのは、肉親との関係性でもありますが、自分自身に内在化された何者かでもあるわけです。

関係の中で傷害されているにもかかわらず、その傷害を自分のものとしてしまうところが、親密で長期にわたる関係の怖さだなと思います。もちろん、良いものもたくさん内在化されていくわけですが。

 

 

で、ここ数か月くらいの話ですが、人間関係における想像というか妄想というか、そういう感じのひとり活動の中で、人から包み込まれるように愛されるとか、そういう感じのことが入ってきていたんですよね。

妄想なので危ないなーと思いつつ、この感覚は今必要なものだと感じていたので、思う存分堪能しました。

その結果の「私もしかして愛されてきた?」だったんだなというのも感じます。

 

 

私の出生の月は冥王星とのオポジションで、しかも冥王星はてんびん座の0度なので、母親にがっつりやられるとか、人間関係全般にがっつりやられるとか、やられて無意識レベルでズタズタになるとか、そういう感じが読み取れますし、月は月でうお座なので、そりゃーもう傷つきやすいですよね!って感じなんです。

 

 

こんな感じで個人のアスペクトからも読み取れますが、マドモアゼル愛さんが「ホロスコープの月はその人の欠損を表す」的なことを書いていて、それとすごく被るというか、この話がやっと理解できたというか、今、そんな感じのところにいます。

 

マドモアゼル愛さんの月の話はたくさんありますが、ちょっと前の記事も多いので、とりあえず、探し出すことができたものだけリンクします。

 

 

ameblo.jp

 

要点をさらにかいつまんで書くと、

 

  • 月は0~7歳の世界でインプリントされたものであり、現実にはない幻影であるが、私たちは本当のことであると思い込んでいる
  • その人の月の象意は、その人の人となりを表すといわれるが、実はその人の中にはないものなので、まねっこで終わるとか、その象意を体現するために膨大なリソースを割いてしまって本当に創造的なこと(例えば、太陽星座を体現するとか)ができなくなってしまう

 

という感じです。

 

人は欠損しているものを埋めようとする、ということが言われたりしますが、月の場合も、幼少期に刷り込まれた欠損を埋めようと無意識に求める心性を表すといえるのかなーという気がします。

 

マドモアゼル愛さんの話はツイッターで話題になっていたようで、他の方の記事も参考になると思います。

 

 

月は人生の落とし穴になり得る | astrology for life

 

月サインについてのマドモアゼル愛先生ブログから派生したいろいろ - Togetter

 

 

Togetterの中でとりあげられていた、いけだ笑みさんのツイート、

 

のこの部分、

月の癒し方→元々全く無かったものをあるふりをし続けていたんだと認める

 

今ここなんです、私。

 

で、ちょっと前の記事にも書いた気がしますが、ここのところの大きな気づきは、「ウチはそんなにひどいようにも思えなかったけど、やっぱりひどい」ということでした。

何がひどいかというと、上の方でも書きましたが、「ウチは愛を知らない一家だった」ということです。

これは、存在レベルでひどい一家だと言えなくもなくて、自分の言い方がひどい気もしますし、私の肉親も、そんなこと言われてもな・・・・という感じじゃないかと思います。

 

で、どうして私にとって「愛を知らない」ということが大きいかというと、私の月がうお座だから・・・という気がします。

姉の月はみずがめ座ですが、彼女の場合は、自分自身の独自性あるいは「みんな違ってみんないい」という側面における自立に問題を抱えている気がします。

 

と考えていくと、私は愛を求める性質であるのに、愛を与えられなかったことがダメージになっているという気がします。

 

 

私の周りにいる人は、私が「私の中に愛がない」「私は愛に飢えている」という性質を持っていることなど思っていないと思います。

なぜならば、「愛し愛される」まねっこは得意だから。

ただ、それが親密な関係の中で、まねっこでは対応できない事態に立ち至ったときには破たんします。

ここ数年、親密な関係を避けてきた感がありますが、このことをうっすら感じていたからだと思います。

 

 

というのが分かってすっきりしたなーと思います。

 

「親が悪い」で止まっていると、自分の人生を見誤ることになると感じていて、我慢するのではなく、消化/昇華することで、自分の人生をより良いものにしていく道筋をずっと模索してきました。

 

「私は愛を知らない」を自覚することで、自分の欠損を理解できて、求めていたものと手に入らなかったものが分かった感じですね。

 

 

記事の上の方で、「私は愛されてきた」ことに気づいたと書きましたが、

 

「愛を知らない」ことと「愛されてきた」ことを同時に自覚するって変な話ですね。

 

私の中では矛盾はなくて、私の場合、社会的な関係の中では愛されてきたんだと分かり、その対比もあって、親密な関係の中で愛を体現することがほとんどなかったことが分かった、という感じです。

 

なので、親密な関係での愛とどうやって向き合っていくのかが今後の課題になりますが、社会的な関係の中での愛を感じ取ることができたのは、非常に大きいですね。

 

その関係と感覚を、親密な関係の中で求めるのか求めないのかという点にも関わってきますし。

もうちょっというと、親密な関係そのものを求めるのか、ということにもなってきます。

 

この課題は、何段階かあるのかなという気がしています。

 

さて、どうやって解決するのか。

 

 

マドモアゼル愛さんは、月のサイン(星座)ではなくて月と正反対のサインを使えと書いていたりします。

 

 

ameblo.jp

 

ameblo.jp

 

2つの記事の中で、月星座別の考え方、やり方が書いてあります。

 

私の月はうお座なので、神秘的な能力などがあると信じたいだけで、うお座の月にはそういう力はないし(月以外がそういった能力を示していることはある)、神秘的な能力を進路や仕事にする試みは失敗に終わる。

 

反転させたおとめ座で物事や進路や決断を考えなくてはいけない人なのです。おとめ座は現実の枠組みを重視します。このケースではこうなることが多い、、、この確率は何パーセント程度あるから、面白いよね、、、など、枠組みのしっかりした現実的な世界観をうお月は必要としています。もしあなたが、私の直観だけど、こうした方がいいよ、、、と人にアドバイスするより、でもさ、今、この程度のお金しかないのにこの生活してたら、あと半年も持たないよ、、と言った方が、ずっと信頼性が増すわけです。現実の形に当てはめて考える、その時々で変化しない自分の物差しを持つ、、、そうした思いで日ごろ意識して生活すると、あなたへの信頼性がグンと高まり、何より、自分自身を信頼できるようになります。日ごろのやるべきこと、掃除、義務を果たす、職務、清潔、こうしたことに気を向けることです。そうしたものを軽く扱わないことです。雲をつかむかのようだった自身の人生が確かにスタートする手応えを感じられることでしょう。

 

月がうお座なのにおとめ座を使う、というのは、身に覚えのあることです。

高校生くらいのころからやっていると思います。

個人の中ではすごく変な感じがしていたんですが、この記事を読んで、「今までのやり方でよかったんだな」と思った記憶があります。

 

 

私のうお座の月は、人間関係を表すてんびん座の冥王星に傷害されていたので、人間関係から撤退して、個人の象限をシステム化するという意味でおとめ座的な性質を使うのがよかったんだな、という面があったんだなというのも感じました。

 

 

今後の話としては、親密な関係の中での愛と向き合うのに、おとめ座的な性質をどう使うかが大事なのかなと思いました。

書いている間に、親密な愛を知るためにおとめ座を使うというよりは、親密な愛をものすごく必要としないような関係を作るために、おとめ座を使う方がいい気がしてきました。

 

なんていうのか、感情としての愛ではなくて、生活システムとしての愛というんでしょうか。

一緒に生活していける枠組みを作るためにおとめ座を使うというか。

 

おとめ座の月は逆パターンになると思うので、そちらを読んでみると、おとめ座の月は批判的になりがちだけど、批判的な姿勢がうまく行かなくて、部屋が汚いくてきちんと片付けなきゃ!となりがちなときに、お部屋には壮大な可能性が横たわっているから魚のようにグズグズしてみようか、みたいな話が載っていたりします。

 

部屋が汚くなりかけているときに、魚のように想像力を広げてしまうというのは、私の場合(月がうお座で正反対のパターンなので)すごくありがちというか。

想像の海でダラダラしているところをぶった切って、家のことをやるとか仕事を始めるとかすると、身体も気持ちもスッキリするので、そちらの方がいいんだろうなと感じます。

なので、この1年は、ところてんのように押せば自動的におとめ座的になるような生活習慣を確立するのがいいのかもしれないなー。

 

 

 

ちなみに、うお座が示す神秘的なことは、どう転んでも好きであるようで、それをいきなりやめるのも難しそうだなという感じではあります。

が、それもやり方で、おとめ座的にやったらいいんじゃないかなという気がします。

 

今、占いの英語の説明書や本を読んでいますが、GoogleドキュメントのOCR機能とGoogleスプレッドシートの翻訳関数がめっちゃ使えることが分かりました。

英文をGoogleスプレッドシートに放り込んで翻訳して、ひとつひとつ修正していくのは、おとめ座的だなーという気がしますので、続けてもいいのかなと。

 

あとは、月の欠損と正反対の星座を使うというのは、おそらくコミュニケーションの時にも役に立つんじゃないかなと。

月の星座が示すものは、私たちにとって大事なものですが、度を超すと袋小路に迷い込むので、正反対のやり方をおとめ座的な言い方で提案してみる的なところですかね。って、これ結構やってる気がするんだけど。

 

 【追記】

上でリンクしたTogetterにリンクされていた鏡リュウジさんの占星術基礎知識まとめがめっちゃ面白かったのでリンクしておきたいと思います。

 

鏡リュウジ先生による「占星術の基礎知識」ツイートまとめ1✨まとめ2に続きます✨ - Togetter

 

鏡リュウジさんは、確か太陽がうお座で月がおひつじ座じゃなかったかと思いますが、おひつじ座的直観を比喩的な言葉で表しているとこうなるって感じですね(水星はみずがめ座だそう)。

私は太陽がおひつじ座で月がうお座なので、鏡リュウジさんの文章はとても理解しやすいです。

(エルブックスの『魂の西洋占星術』を読んで、それまで全然頭に入ってこなかった西洋占星術の話がすっと分かるようになったという)

 

ただ、今回、Togetterでざーっと読んでみると、表現方法が自分と全然違うなーと感じて(たぶんベクトルが逆)、すごく面白いです。

 

ベクトルといえば、

 

月サインについてのマドモアゼル愛先生ブログから派生したいろいろ - Togetter

鏡リュウジ先生による「占星術の基礎知識」ツイートまとめ1✨まとめ2に続きます✨ - Togetter 

 

を読んでいると、

マドモアゼル愛さんが言っている月の欠損という(否定的な)性質というのはドラゴンテイルの中にも見出されていたり、他の方が言っている、月の現世利益的な性質はパートオブフォーチュンに含まれていたりとかするらしきことが書かれてあったりするんですが、

 

西洋占星術の各天体の概念にはさまざまな要素が含まれるので、ひとつの天体にすべての概念を入れ込むと訳が分からなくなってくるので、もともとの「月」という概念をベクトル分解して、ドラゴンテイルとかパートオブフォーチュンとかに仮託したって感じがしました。あと、リリスとか?

(ドラゴンテイルとパートオブフォーチュンの成り立ちを見たら全然違っているかもしれませんが)

 

そんな感じで考えていると、「月星座の正反対の星座を使う」というのも、実は、他の天体に現れている(ベクトル分解できる的なイメージ)かもしれないなーという気がしました。

 

私のばあいは、うお座月の正反対、おとめ座的な性質は、「水星が強い」「土星が双子座でASC直下にある」「ASC自体はおうし座」みたいなところにベクトル分解できそうな。

おとめ座の支配星は水星で、水星と土星はレベル違いでデジタルな性質を持っている的なところと、おうし座のセキュリティ感覚が、おとめ座的な整理整頓に結び付くみたいな感じ(私の場合、内的世界が混沌と不安定な感覚を持っていた = たぶんうお座月が傷ついていることと関連 なので、せめて外的世界くらいは整然とさせておかないと、いろいろヤバイことが起こる、みたいな感じを持っている)。

 

 ということで、私の場合は、おとめ座的な性質によって適応的に生きることができている面があって、それは必ずしも月の対向の星座として見る必要はなくて、他の要素によって表現可能であるということが、自分的には分かってきました。

 

だからといって、月は欠損を表す的な考え方が自分にとって必要なかったかというと、そういうわけでもないのかなーという気はしています。

 

 

月サインについてのマドモアゼル愛先生ブログから派生したいろいろ - Togetter

 

では、これまたマドモアゼル愛の記事になっている「母殺し」にも触れられています。

「母殺し」とは物騒な言い方ですが、要は、幼いころに植え付けられた価値観が、現在の不適応や生きづらさを生み出している場合に、「これは幼いころに植え付けられた価値観であって、私が自発的に持った考え方ではない」ことを意識することで、その価値観から抜け出して、適応的な生き方ができる契機になり得るということですよね。

この考え方は、私にとっては物凄くうなずけるものであって、特に異論をさしはさむ必要があるものではないんですが、親との確執などを経験しなかったり、早いうちに親に見切りをつけて自立したりした人にとっては、ピンと来ない話なんだよなーというのを改めて認識しました。

 

まとめの中でも触れられていましたが、月は欠損を表すという考え方が、占星術的な一般性を持つかというとそういう訳ではないし、むしろ極端すぎる、主観的すぎるきらいがある話だろうと思います。

 

どのくらい主観的すぎるかというと、私の話をさらに続けますと、私の母親の月星座はやぎ座で、月は欠損を表すという考え方に従うと、やぎ座の月は、権威を志向するけれども、権威を求めるが故に人生を失敗する的なところがあるのかなと思います。

私の母の場合は、職業婦人を目指したけれども、結婚と出産により家庭に入らざるを得ず、夫(私の父)や子ども(私)に権威づけをしようとしますが、父も私も失敗しました。という感じ。

というのを考えているときに、ぽろっと「お母さん、ごめんね、出来損ないで」っていう言葉が出てきたんですよね。

 

この言葉が出たとたん、あーーーー!!!!って思いましたよね。

自分で言うのも何なんですが、私、客観的には全然出来損ないじゃないと思うんですよ。

けど、子どものころからずっと強烈な劣等感を持ち続けていました。

この劣等感は、父からの刷り込みだと思っていたんですが、そうじゃなくて、母からの刷り込みもあったですね。

私なりに頑張ったけど、母からすると全然足りてなかったんですね。

それに、私の場合、内発的動機付けが強すぎて、権威とか正直「何それおいしいの?」状態だったので、努力の方向も、母が求めるものと違っていたんだろうと思います。

だったら、母の気持ちなんて気にしなければいいのに・・・・・気にしてたんですね、内心では。

「お母さん、ごめんね、出来損ないで」という言葉は、個人的にはかなり根っこに近い部分なのかなと感じますので、これをどうするか、また考えたいと思います。

 

 

 この話を読んで、分かるわーっていう人と、全然分からない人と、二分されるんじゃないかという気がします。

個人的には、このレベルで根っこに迫れる概念はそんなに沢山はないので、あって良かったなという感じなんですけど。

要らない人には要らないですよね。

 あとは、私は西洋占星術を研究しているわけではないので。

研究している人からしたら、極端すぎてまずいだろうと思うんだろうと思います。

  

 

と、つらつらと書いているのは、私の場合、出生の太陽とキロンが合なので、「傷を乗り越えていけ。そこに叡智が待っている」的なところが人生の目的だからだろうなーと思ったりもします。

ま、出生の月がボロボロでも、乗り越えるバイタリティとか縁(ミスティックレクタングル + MC-IC軸と重なっているノート軸のグランドセクスタイル持ち)みたいなのがあるから、「傷を乗り越えていけ」と言っていられるわけで、むやみやたらと勧められるものでもないですけど。

 

 

 

 

マズローの基本的欲求とアーウルエーダのドーシャを対応づけて体質改善につなげたい

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い申し上げます。

 

昨日の続きです。

続きがあったのって感じなんですが。

 

暮れにアーユルヴェーダのオイルを注文してみました。

届いたのが元旦っていう、ショップの方にも配送の方にも迷惑な注文の仕方をしてしまいました。本当にありがとうございます。

 

注文したのはクシーラバラオイルというやつです。

 

ayurplanet.shop-pro.jp

 

説明と成分を引用させていただきたいと思います。

 

Organic Ksheerabala Thailam クシーラバラオイル
ヴァータ増悪症状全般用 身体を温め、疲れをとり
神経を穏やかにして感覚器官に働きかけます。
全身はもちろん、シロダーラや頭や顔、ヴァスティ、ナスヤにも使用できます。



Ksheeraは牛乳、Balaはバラーの根という意味です。


乾燥肌に!
神経的な疾患、寒さで生じる骨や身体の痛みを和らげます。
バラは骨の成長、強化に良いと言われています。



成分)シダ科の植物(バラーの根)、牛乳、ゴマ油

 

 

今年の冬は雨が多くて、しかももうすぐ年越しのころになって冷え込んできました。

私の場合は、湿った寒い気候はダメらしくて、とにかくお腹をあたためていました。

湿気と寒さなのでカパも関係していますが、なんとなく自律神経に来ている感もあり、ヴァータも悪化していそうな気がして、久しぶりになんとなく覗いたショップでクシーラバラオイルが出ていたので注文してみたという感じです。文が長い。

 

使ってみた結果、肌に油分が残らないくらい浸み込んでいるので、必要そうだなと。

(ピッタ仕様のピンだオイルは、今の時期使うと肌に油分が残る。あくまで私の場合ですが)

どう考えても足りていないので、もっと使った方がいいのですが、とりあえず気持ちの面では落ち着いたかなと。

さすがヴァータ仕様だなー。

 

で、落ち着いてみて気づいたんですが、父からはカパの増悪、母からはヴァータの増悪を受け継いでいそうだなと。

カパの憎悪は怠惰で、ヴァータの憎悪は混乱、みたいなイメージなんですが、アーユルヴェーダ的には合っているのかな。

 ウチの父方は軒並み鼻炎とか喘息とか持っていますし、体質的には合っていそうかな。

 

 

父はきっちり動こうとするけれどもそんなにたくさん動きません。

そして、年齢とともにいろんなところが悪くなって、頭はぐるぐる回るけど、身体は全然動かない状態になり、今は頭も身体も緩慢に動かなくなってきています(最後はたぶんカパとは関係ない)。

 

父は、変な言い方になりますが、「乗り物」が小さいです。自分一人しか乗れない小さな小さな小皿に乗って生きている感じがします。

母は自分の乗り物を持っていません。人に乗せてもらわないと生きていけないのですが、祖父(母の父)とおば(母の姉)をあいついで亡くしてから、乗せてくれる乗り物がなくなってしまって(父の乗り物には乗れないので)、混乱し始めました。

 

つまり、父の器の小ささが(ここはカパと関係あるかは不明だけど、カパが健全に働いていたら、器の大きな幸福な人になるそうなので、カパの憎悪で器の小さな人になるというのはありそうな気がするんだけどどうなんだろう)、母の混乱 = ヴァータの憎悪を引き起こしているのかなという気がします。

そう考えると、母が私たち姉妹の人生に介入し続けようとしたのもわかる気がします。母は、私たちの乗り物に乗せてほしかったんですね。母を自分の乗り物に乗せるとどうなるかというと、自分の欲望のままに行動して、乗り物自体を破壊します。その傾向は、20数年前の阪神淡路大震災以降顕著になって、数年前についに私も根を上げて現在に至るという感じかな。母自身はそうは思っていないでしょうけれども。

 

母のヴァータの混乱は、父への攻撃性となって表れ、父のヴァータも悪化し、頭だけぐるぐる回って行動できないみたいなことになったかなと思ったりします。

 

父は小さな乗り物しか持っていないと書きましたが、その背景には、父の生い立ちによる安心・安定の欲求@マズローが満たされていないというのがあるだろうと思います。

それから、所属・愛の欲求も満たされていないだろうと思います。

母も同じですね。

 

カパの憎悪、ヴァータの憎悪的な体質の乱れと、安心・安定の欲求、所属・愛の欲求が充足されないというのとは対応している気がするんですが。

そして、これらの欲求が充足されていない場合に、他の人に対して、その欲求を充足させることができるかといえば、それはちょっと無理なんではないかという気がしています。

 

 

父と母のことを長々と書きましたが、今回の記事を書くことによって、今後試みたいのは、おそらくは私にも受け継がれているであろう、カパとヴァータの憎悪と安心・安定の欲求、所属・愛の欲求が充足されていない状態を改善できるかどうか、ということです。

 

もうちょっと正確にいうと、カパとヴァータの健全化については、多少なりとも糸口が掴めているので、カパとヴァータを健全化することによって、安心・安定の欲求、所属・愛の欲求がされやすくなるのか、ということですね。

もちろん、実際の人間関係は必要だと思いますが。

 

父と母から得られなかった 安心・安定の欲求、所属・愛の欲求は、多少なりとも周囲の人によって充足されている現実もありますし、それらの人に対して何らかのお返しができるようになりたいし、私みたいに足りていない人に対してほんの少し充足されるような形で関われると嬉しいなと思います。

 

 

 

 

マズローの基本的欲求から自分自身の「いい思い出」について考えてみる

昨日、こんな記事を書いたんですが、

 

coccolifestyle.hatenadiary.jp

 

いいことも考えて、2019年を締めくくろうかなと思いました。

 

人生の経験というのは、基本的にはいいものも悪いものもあると思っています。

ここ何年か、ずっと毒親問題が浮上していて、故意にいい面を見ずに来ました。

昨日の記事は、自分でも書き切った感があって、アイデンティティが少し安定したというのか、もう少し客観的に見れそうになってきたので、人生における「いい思い出」について考えてみたいなと。

 

前振りがあまりにも長くなってしまったので、目次をつけておきます。

本題にサクッと行きたい方は、下の本題のリンクをクリックして飛んでください。

 

 

 

で、以下、長い前振りです。

 

なぜ、いい面をわざと見ないで来たかというと、子どものころから「ウチ親やばい」という視点があったならば別なんですが、私の場合は、親、特に母親がやばいというのは青天の霹靂で、「ウチの母が毒親だ」とか思いたくない、という気持ちに引っ張られがちだったからです。(その気持ちがようやく吹っ切れたのが、昨日だったという話もある)

 

しかし、毒親問題が浮上してきた時点で、私自身の身体がボロボロでもたないところまで来ていたので、回復させるための一方策として、母親との関係を見直すという方向へ行ったわけです。

数年前に「ウチの母親やばい」と気づき始めて、あることがきっかけで、極力連絡を取らない(私の中では連絡を絶つ)ことにしたら、高校時代から30年近く増えなかった体重が5,6キロ増えましたし、それに伴い体力がかなり戻ってきたという経緯があります。

 

自分の身体の調子を見て、母親との関係がかなりやばいというのをかなり認識して、何が私の心身を蝕んでいるのかについての探索をしている最中に、コメント欄で複雑性PTSDについて教えていただきました。

複雑性PTSDについて知ったことで、情報量が飛躍的にアップして、また、客観的な状況を把握できるようになったことで、体調の回復も進みましたし、母親のあり方も分析できるようになってきました。

 

 

で、昨日の記事を書いて、ちょっといいことも考えもいいのかなと思って、記事をアップしてみようと思います。

 

ちょっとしつこいんですが、「毒親に苦しんでいる」自覚のある方(成人)に関しては、むやみやたらと相手の美点を探さない方がいい気がします。

毒親と子(成人)がまず行うべきなのは、親離れ子離れです。

毒親が子離れをしてくれるかというとそれはちょっと保証できないというか、ウチはたぶん無理ですね。

で、無自覚に成人となった子どもを縛りつけてボコボコにする的なことをやります。

相手はそれが愛情表現だと感じている場合もあります。

で、親の愛情が子ども(成人)を蝕むということになっていると思います。

 

なので、毒親持ちの子ども(成人)ができることは、まずは親離れです。

できるだけ遠くに住む、最低でも別居がいいです。

私の場合は、新幹線で数時間かかるところに住んでいてよかったと思います。

それでも、意味不明の呪いみたいな電話で体調を崩しますし。

 

と感じています。

あくまで、私が感じていることですが。

私の場合は、離れて連絡も絶って、自分の中を整理して、やっともうちょっと肯定的な方向に進めるかなという状況になっていますが、それも、場合によっては後戻り、振り出しに戻る的なこともあるだろうとも思っています。

 

が、そういうことを考えていると、自分を蝕む関係だけではなくて、健全に生きれる関係もあったんですよね。

 

ということでやっと本題です。

 

本題。

 

 父親との関係について再考してみました。

父親の方が癖があって(たぶん自閉症スペクトラム障害系の発達障害学習障害があり、養育環境もたぶんネグレクト)、長い間ずっとマークしていました。

私が中学生ごろから関係がこじれて、大学院に入る前ごろに単身赴任から戻ってきたときに関係が最悪になって、それからすぐに私は実家を出たんですが、博士論文を書き終わった後ぐらいから、父親に対する優しい気持ちみたいなものが戻ってきました。

その後、いろいろあって腹を立てたりしたことは何度もありますが、父親が70歳を過ぎるぐらいから、父親の老化を認めざるを得ない状況に立ち至り、そこからは少なくとも自分の気持ちとしては落ち着いているように思います。

離れて住むようになったことは大きいと思いますが。

 

では、中学生になる前はどうだったかというと、私は父のことが好きでした。

そうだったわ!というのを今さらながらに思い出すわけですが。

特に、幼稚園くらいのときは、子どもの目線に立って遊んでくれましたし、楽しかったですね。

ただし、父親は、子どもの目線に「降り立った」わけでもなんでもなくて、情緒のレベルが4歳ぐらいから育ってないんじゃないかなーという気がしますので、幼稚園ぐらいだとちょうどよかったんだろうと思います。

私がその後年を重ねて小学校ぐらいから、なんか微妙にギクシャクしてきて、中学校ではっきりとこじれました。

大人になってからは、「お父さんはいつまで経っても子どもだから、私のことをわかってくれない、だから疎ましい」と無意識に思っていたと思います。

今はもう仕方ないという感じですが。

 

それから、幼稚園の年長さんのときは楽しかったですね。

年少、年中のときに行っていた幼稚園はホントにつまらなくて、何をやっていたのか本当に覚えていませんが、年長さんのときに行っていた幼稚園はたくさんいろんなことをやらせてもらって楽しかったです。

 

あと、大学院ごろから10年くらいお世話になっていた保育園も楽しかったですね。

 

と書き連ねると、幼児期関係のことばかりになりますが、この時期の「楽しかった」って何だろう?と考えると、

 

 

 

マズローの基本的欲求と対応させると、所属と愛の欲求の充足なんじゃないかなと思うんですよね。

 

所属と愛の欲求とは、『マズローの心理学』では、こういうことが書かれています。

 

マズローは、愛についてのカール・ロジャースの定義を好んで使っている。すなわち「愛とは、深く理解され、深く受け入れられることである」(p.65)

 

この文章は、自分の中で深い理解をもたらす何者かであるような気がしますが、幼児期における父親の私に対するかかわり方は、所属と愛の欲求を充足させるものだったのではないかなと思います。

もう少しいうと、幼稚園くらいまでは、生理的欲求も安全と安定の欲求も致命的になるほどのことはなかったのかもしれないと思います。

幼稚園の年少、年中では明らかに不適応を起こしていましたが、家でカバーできる何かはあったわけですね。

 

それから、大学院あたりからお世話になっていた保育園では、明らかに深いレベルで理解して受け入れていただいていたと感じます。

 

ということで、自分自身の幼児期および幼児と関わる環境では、いい思い出を積み重ねていて、今でもかかわり続けているし、今の関係がいいから、過去の思い出もいい感情をもって思い出せるというのがあるんだろうなと感じます。

 

というのを考えてみたら、母親に対しても感謝すべきことはあって、少なくとも衣食住の心配をしたことはほとんどなかったので、それは本当によかったんだと思います。

ただ、パンを与えていれば事足りるのかというと、それだけでは済まない何かがあることも併記しておきたいと思います。

 

 

ということで、2019年最後の記事が、自分の生い立ち二連発みたいになってしまって、めっちゃ長かったですが、今年の総括もできたということで、明日2020年の元旦からは心機一転精進したいと思います。

 

今年もお世話になりありがとうございました。

来年もよい年になることを祈っております。

 

 

マズローの基本的欲求からみた毒親問題

マズローの解説書を読んでいます。

 欲求の階層について読んで気づいたことがあったので、書いてみたいと思います。

 

マズローの心理学

マズローの心理学

 

 

 

複雑性PTSDという用語を知った前後で読んだ本ですが、

 

消えたい: 虐待された人の生き方から知る心の幸せ (ちくま文庫)

消えたい: 虐待された人の生き方から知る心の幸せ (ちくま文庫)

 

 

過去記事はこちら。

 

coccolifestyle.hatenadiary.jp

 

この本の中に、「心理的ネグレクト」ということばが出てきます。

心理的ネグレクト」に関しては、過去記事に字数を割いて紹介していますので、興味のある方は読んでいただければと思いますが、

 

心理的ネグレクト」ということばによって、自分が経てきた養育状況をつぶさに理解できたとともに、腑に落ちない面もありました。

 

「腑に落ちない」というのは、「心理的ネグレクト = 虐待」と言い切ってよいものかという点です。

私の感覚では、「心理的ネグレクト」やそれに近い養育をしている人は、相当数に上るのではないかと感じています。

とすると、日本における被虐待児・者はものすごい数に上るのではないか?と思うわけです。

 

今は、私の中に「虐待 = レアケース」という思い込みが残っていたことによる疑問だろうと気づいていて、日本における被虐待児・者はものすごい数に上るというのが実情なのではないかと感じます。

もちろん、児童相談所などの公的機関がすべての案件にかかわる必要があるかといえばそういうわけではなくて、「心理的ネグレクト」の場合、乳児期をなんとか生き延びた後は、友人、学校など、社会における関係で育つ可能性をおおいに持っていると思います。

もちろん、現時点で支援の対象とされている被虐待児に関しても、社会の中で育つことが必要ですが。

 

発達障害の概念が変化してきたように、虐待・被虐待の概念も変化していって、「虐待スペクトラム」のような見方も必要なのではないかと思います。

 

 

改めて自分の状況を見てみると、母親から電話がかかってきたら、パニック発作みたいな状態になるんですよね。

ここ数年、かなりコントロールできるようになったので、他の状況、しかも、客観的には母親と電話で話すよりも数段しんどいことであったとしても、パニック発作様の状態になることはなくなりましたので、正直、母親と話すときだけなんですよね。

 

頭で納得していなかったとしても、なんかあるんだよなーと思っていたわけなんですが、マズローの解説書を読んでいて、気づいたことがあって、ちょっと落ち着いた気がします。

 

 マズローの欲求の階層は、こんな感じになっています。

  • 自己実現欲求
  • 承認欲求 自己承認と他者承認の両方
  • 愛と所属の欲求
  • 安全と安定の欲求
  • 生理的欲求

※p83の図から書き起こし

 

で、一番下、つまり生理的欲求から満たされていくわけですが、通常であれば、生理的欲求、安全と安定の欲求くらいまでは満たされているので、欲求として浮上してくることはありません。

 

 

一方、厚労省による児童虐待の定義を見てみると、

 

児童虐待の定義と現状|厚生労働省

 

児童虐待は以下のように4種類に分類されます。

  • 身体的虐待 殴る、蹴る、投げ落とす、激しく揺さぶる、やけどを負わせる、溺れさせる、首を絞める、縄などにより一室に拘束する など
  • 性的虐待 子どもへの性的行為、性的行為を見せる、性器を触る又は触らせる、ポルノグラフィの被写体にする など
  • ネグレクト 家に閉じ込める、食事を与えない、ひどく不潔にする、自動車の中に放置する、重い病気になっても病院に連れて行かない など
  • 心理的虐待 言葉による脅し、無視、きょうだい間での差別的扱い、子どもの目の前で家族に対して暴力をふるう(ドメスティック・バイオレンス:DV) など

 

 となっています。

 

これらの定義に挙げられている行為とマズローの欲求の階層とを対応づけてみたいと思います。

 

すると、厚労省による虐待の定義で挙げられている行為は、被虐待児(実際上は被虐待者も含まれていると思われる)の生理的欲求を阻害するようなことになっているのではないかと感じます。

分かりやすいのは身体的虐待とネグレクトですが、生理的欲求には性の充足も含まれるので、性的虐待も含まれるでしょう。

性的虐待についてもうちょっと書くと、たとえば、2,3歳ごろに性的虐待を受けていたとして、その時点で、子ども自身が主体的に性的交渉を持ちたいという欲求を持つことは少ない気がしますので、性的虐待を受けている時点において直接的に性の欲求が阻害されることは少ないかもしれません。しかし、その子どもが思春期を迎えたときとか、大人になったときには、何らかの形で性衝動や性的交渉に影響を及ぼしてくるだろうと考えると、性的虐待も生理的欲求を直接阻害するものと考えてよいのではないかと思います。

 

ちなみに、私の実家の場合、あったのは心理的虐待くらいだなと感じていますが、ずっと悪夢を見ていたことに最近気づいて(見なくなってから、ずっと見ていたことに気づいた)、そうなると、睡眠欲を阻害されていたってことになるので、生理的欲求を満たすことを阻害されていたといえるのではないかと思ったりします。

 

 

生理的欲求を阻害されることは、おそらく、生命の根幹にかかわることでしょう。

これを阻害されたら、命をつないでいくことができないレベルということです。

本当の意味で命が消えてしまうレベルだけを「虐待」とするのか、それ以外の部分も含めるのかは、その人それぞれの立場によって違うだろうと思いますし、世代によっても違うのではないかと思います。

 

わたくし個人的には、命が消えてしまうレベル以外も「虐待」に含めたいですね。

「虐待」という用語がダメならば、他の用語を充てたいです。

なぜならば、命自体は消えていなくても、人としての人生が阻害されている場合、非常に生きづらくなるというのを経験しているからですね。

 

 

ということで、命自体は消えていなくても人としての人生が阻害されていて、非常に生きづらくなっている状態とマズローの欲求の階層との対応を考えてみたいと思います。

 

 

生理的欲求が満たされた場合、次に起こるのは、安全と安定の欲求です。

 

マズローの解説書の該当箇所を見てみると、

 

安全の欲求

 生理的欲求が十分に満足すると、マズローの言う安全の欲求が現われる。安全の欲求は、一般には健康な正常人においては満たされているので、子供とか神経症患者を観察することによって確かめることができる。児童心理学や教師によって、子供が予測可能な世界を求めている、ということが明らかにされている。つまり、子供は一貫性、公正を好み、また、ある程度は決まりきった手順をとっていたのである。これらの要素がなくなると子供は不安を感じ、安泰感を失ってします。完全な自由よりもむしろ限度のある自由の方がよいのである。実際、マズローに従えば、それは適応良好の子供の発達にとって必要なことなのである。

 不安定な、あるいは神経症的な大人は不安定な子供ときわめてよく似た行動をする。「そのような人間は、あたかも天変地異が差し迫っているかのような行動をする。つまり、まるで緊急事態に対するような反応の仕方をいつもしているのである。言い換えれば、神経症者は、ちょうど平手打ちを恐れているような行動をする、といってもよいであろう」。不安定な人間は秩序や不変性に対する強力な欲求を持っていて、目新しい、予期しないことは徹底的に避けようとするのである。健康な人間もまた、秩序と不変性を求めはするが、しかしそれは神経症者のように生死にかかわるようなものではないのである。成熟した人間は、新しくて、神秘的なことにも興味を持っているのである。(p.63~64。下線は私が入れました)

 

 

 それから、安全と安定の欲求の次は所属と愛の欲求ですが、

 

マズローは、愛についてのカール・ロジャースの定義を好んで使っている。すなわち「愛とは、深く理解され、深く受け入れられることである」(p.65)

 

とのことです。

つまり、他者との関係の中で、「深く理解され、深く受け入れられる」ことで、居場所ができるということではないかと思いました。

 

さらに、マズローは「愛情欲求が妨げられることが不適応を起こす第一の原因である(p.66)」と考えているようです。

 

安全と安定の欲求と所属と愛の欲求についての考え方は、愛着理論とオーバーラップする気がします。

 

 

愛着理論の要諦は、幼い子どもが脅威から身を守るために、周囲の特定の人物との親密さ(情緒的な絆)を築くという点だろうと思います。

 

子どもに対して、事務的に世話をする(たとえば無表情で肯定的な話しかけやアイコンタクトなしに母乳や人工乳を与える、おむつを替えるなど)と、発達の遅れを引き起こすことが知られています。

さらに、子どもは外界を探索する生き物ですので、探索時に遭遇した脅威から身をも守ってくれる人がいて初めて安心して探索できるわけです(この方向性が安全基地の形成につながっていく)。

 

つまり、養育者に対する愛着というのは、単に生理的欲求を充足させることで生まれるわけではなくて、温かい絆や自分を守ってくれる安心が生じさせているといえるわけです。

 

となると、愛着理論とマズローの欲求の階層とは、きれいに対応するなと。

 

  • 脅威から身を守る = 安全と安定の欲求を充足させる
  • 情緒的な絆 = 所属と愛の欲求を充足させる

 

 

記事の上の方でリンクした、『消えたい』という本は、「心理的ネグレクト」の場合は愛着の不全も引き起こしていると書かれていたと思います。

 

となると、「心理的ネグレクト」に置かれた場合、安全と安定の欲求および所属と愛の欲求の充足が阻害されることになるのではないかと。

 

心理的ネグレクト → 愛着の形成不全 → 安全と安定の欲求および所属と愛の欲求の充足が阻害

 

という回りくどい理解になってしまいましたが、愛着の理論だけでは腑に落ちない点が、マズローの欲求の階層の考え方によって補完されたんじゃないかと思ったりします。

(私自身は、愛着の理論には詳しくないので、きちんと勉強すれば読み取れることなのかもしれませんが)

 

どこがミッシングリンクになっていたかというと、心理的ネグレクトからの愛着の形成不全の悪影響は、養育者との関係だけで起こるわけではなくて、社会的関係のすべてにおいて起こりうるという点です。

愛着それ自体は、子ども時代だけにおいて重要なわけではなくて、愛着関係をベースにして他との関係を広げていきますので、当然、一生涯にわたり影響を与え続けるものだと思うんですが、成長した後に、どう影響するのか、いまいち腑に落ちていなかったということですね。

 

 

心理的ネグレクトによって養育者との間に安定した愛着が築けなかった場合において、社会的な関係の中であったり、家を出た後のプライベートの関係、さらには、自分の家の中においてさえ、安全と安定の欲求および所属と愛の欲求の充足が難しくなる場合があって、それが個人の中での生きづらさを知覚させるもとになっているのではないかと感じました。

 

 

 養育者との間に安定した愛着を気づくことができなかった場合でも、他の関係において、心から信頼できる人や組織に出会うことで、人生が肯定的な方向へ進んでいくケースはたくさんあると思います。

私自身も、生家以外の人との関係の中で、温かい共感を得ることができて、この年までなんとかやってこれたんだなーと感じます。

 

その一方で、信頼関係を培うまでのハードルと労力たるや、健全な愛着を築くことができた人の何倍にもなるんだろうなと思います。

30代半ばくらいまでは、会合など、知らない人が沢山いるところに出かけていくと、終わった後にひどい頭痛していました。

今思うと、ずっと緊張していたんですね。

そういう緊張を超えて信頼関係を結ぶことになるわけです。

そりゃ疲れるわ、と思います。

 

 

「日本人の生産性の低下」が取りざたされることがありますが、個人的には、心理的ネグレクトレベルの養育環境が引き起こしていることも多いのではないかなという気がします。

 

『身体はトラウマを記録する』を読むと、発達性トラウマ(≒複雑性PTSD、ものすごくおおざっぱにまとめると、主に養育者による虐待によって、長期間にわたってトラウマを経験し続けること)によって、脳機能が低下することがわかります。

自律神経の働きも健康なときと変わる → コミュニケーションのあり方も変わる@ポリヴェーガル理論というのも推測されます。

 

 

(参考)

ポリヴェーガル理論とは | カウンセリング&セラピー AROHAM

 

 

創造性と問題解決能力、コミュニケーション能力が生産性を決める世の中ですから、 発達性トラウマ的な人が沢山いたら、生産性が下がるのは当たり前でしょう。

 

と考えると、生産性低下の犯人捜しをするよりも先に、自分を大切にし、他者を大切にできる環境を作るのが先な気がします。

 

自分を大切に、他者を大切に、というと、毒親と音信不通になることが悪いことのように言われる可能性もありますが、

毒親と関わり合いになること自体が自分を蝕むことになる場合は、自分を大切にすることを優先して、連絡を絶つもありだと個人的には考えます。

 

「本当にひどいことをされたのか?」というのは、おそらく多くの人が迷うところだと思いますが、

 

加害・被害の事実認定ではなくて、

 

親と関わったときに想定される精神的健康(場合によっては身体的健康も含めて)の阻害度を考えて、親とのかかわり方を決めるとかもありなのかなと思います。

 

たとえば、親と会う場面をどういう感覚がするかのかを想像してみるとか。

たとえば、息苦しくなるとか、動悸が激しくなるとか、ものすごく身体がだるくなるとか、重苦しい気分になって落ちるとか、そういうことがあったら、かなりまずい状態じゃないかと思います。

ましてや、会うところを想像しようとしただけで混乱してしまうとかパニックになってしまうとか(私の母電話でパニック発作はこれに近いものがある)だと、私だったらまず無理です。

1時間だけ、家の外でお茶をするとかだったらまだ耐えられるかもしれません。

けれども、同居で介護とかは無理でしょう。

身体と精神を壊すことになる可能性もある気がします。

 

 

今日Yahoo!で見かけた記事です。元記事を貼り付けます。

 

toyokeizai.net

 

この記事のすごいところは、毒親介護を「捨てる」という選択肢が書かれているところだと思います。

ヤフコメで「捨ててもいいんですね」と書かれている方がいらっしゃったのが印象的でした。

実情はともかく、「捨てる選択肢がある」と分かるだけで違う気がします。

(学習性無力感から抜け出すきっかけになるかもしれない)

 

豚ロースのブロックを低温調理

年末進行まるで無視の今年最後の日曜日です。

 

先日、低温調理でこれはよい!という記事を見つけたという話を書いていたんですが、

 

元記事を貼り付けます。

 

tsukurioki.hatenablog.com

 

やってみたら、実に簡単に低温調理ができました。

低温調理の場合は、下準備が結構な割合を占めるってことですね。

 

寝おきじゃなくて、2,3回、70度から80度になるまで火入れして、1時間くらい放置していたという感じですけど、かなりジューシーに仕上がりました。

 

惜しむらくは若干臭みが出てしまった部分があったことでしょうか。

これは、パック詰めされた鶏肉の状態に依存すると思います。

コストコのさくらどりのむね肉でやったら、かなり大丈夫じゃないかと思ったりします。

コストコのさくらどりのむね肉は、普通に食べるときも、余分な脂肪とか取ったことないです)

 

で、鶏むね肉1キロをパックごと低温調理したことで、なぜか火入れのタイミングとかがわかった気がしたので、さらにやってみました。

 

鶏むね肉は定番やなーと思うんですが、豚ロースが100グラム88円で出ていたので、結構でかいブロックを買ってきました。

たぶん、700グラムとか800グラムくらい。

 

で、鶏肉と同じ要領でやろうとしたら、3リットルの平たい鍋(リンク先のゼロ活力なべ通称ゼロ活)だと、肉の上部が水から出ちゃうんじゃない?と思いました。

 

そうかー、鶏肉は平たいけど、豚肉とか牛肉は厚みがあるんだーというのを改めて実感。

 

ということで、ゼロ活の6リットルに変更。

 

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肉に焼き色をつけている最中です。

フライパンは22センチですが、20センチだとぎりぎりでちょっと苦しかったかも。

 

奥のゼロ活6リットルと遠近感が変ですが、正直、このサイズの肉だと、6リットルの鍋でも何の違和感もないです。

 

肉のサイズの目安としては、食パン6枚切り3枚分を一回り小さくした感じかなー。

何度も言うけど結構でかいんですね。

 

ANOVAとかBoniqとかの小さいやつでも、クリップが15センチくらいのところに来るっぽいんですけど、ゼロ活6リットルの深さが15センチ弱。

正直6リットル鍋よりでかいのかよって感じだったんですが、まあ、それくらいの大きさでも全然普通な感じ?

ANOVAとかBoniqだと、水を対流させるのに、水多めがいいという話もどこかで見た気がしますし。

 

まあ、今は、ガスコンロで火入れしてますんで、もうちょっと肉多めでもいけるかなという気はします。

 

あ、ウチみたいに、大きな鍋が圧力鍋しかないという方は、蓋をするときには、おもりをはずさないと恐ろしいことになると思います。

ちなみに、ウチでは、付属していたガラスの蓋を使ってます。

 

 

 今回は、先にフライパンで焼いていたので、一度80度程度まで上げて放置しました。

 

出来上がりはこんな感じ。

 

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中心まで火が通っていますが、しっとりジューシーです。

 

下ごしらえのときに、ちょっと塩が多すぎたかもしれないと思って、洗い流しついでに焼いてみましたが、味加減がちょうどであれば、焼かなくても普通にゆで豚っぽい感じでもいいかもしれません。

 

ただ、ロースだと脂がかなりすごいので、焼くか下茹でするかである程度は脂を落とす方が個人的には好みな気がします。

 

豚の角煮をしている方もいますね。

 

cookpad.com

 

脂肪を落とした後、タレごと袋に入れて加熱したらいい気がするんですが、どうなんでしょうか。

鶏むね肉ですが、梅酒とこんぶ醤油に漬けこんでいるので、どういう感じになるのか、また試してみたいと思います。

 

ブライン液っていうのも、万能そうですね。

cookpad.com

 

 

www.aco-mom.com

 

 

鍋の中で放置している間に、余っていたニンジンをラペにしてみました。

 

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参考にしたレシピはこちら。

基本のキャロット・ラぺ by 鈴木美鈴 | 【Nadia | ナディア】レシピサイト - おいしいあの人のレシピ

 

すんごい細く切るのが大変なので、千切り器が欲しいかも。

こういう感じのやつ。

千切りがあっという間にできる貝印の千切り器 | 櫻田こずえの食卓

 

 

あと、低温調理のビニール袋。低温調理の記事で紹介されてたやつ。ちょっと高めですが、分厚いのでかなり良いです。

低温調理じゃなくても、味玉とか、漬けこむ作り置きのやつとか、結構便利。

私は楽天で買いましたが、とりあえずアマゾンのを貼っておきます。